2010年10月31日日曜日

Mariaの「Ma----」で抱きしめて

またまたウェストサイドネタですが

前回「Maria」の歌の聴き比べを書いたときどこらへんをキーポイントに

惹かれたのかなー?と考えてみた。

歌の間奏部分の、とにかく「Maria」を連呼するところの終わり頃

Mari---a-,Ma------と伸ばす部分の強調部分の強さな気がする。実際の音楽記号はどうなっているかは

わからないけどこの箇所が思いっきり強い気がする。

そして歌そのものの肝なのかなとも思った。





デヴィッドに再び登場していただいて聴いてみる。

1:54あたりの部分。ちゃんと抱きしめるような仕草も。

これがホセ・カレーラスだと個人的にちょっと暑苦しい(むちゃくちゃ言ってますがカレーラスも好きなんですw)

結構この曲が最近の精神安定剤となっている。


好きな人の名前というのは、それだけで神聖で美しい響きなのだろうなあ。

2010年10月29日金曜日

(笑)はどう笑う

さしておかしくなくとも、つい語尾に付けてしまえば間が持つ記号。それは、コレ。


(笑)

私も便利に使ってたりするけど、チャットだったら→wだけでも通じたり、でもこれも

多用しすぎると凄く不愉快な印象を与えたりもする。

海外だと→ :) (首を横にしてご覧ください)慣れるとこういうのも可愛い。

この(笑)をテーマにした五行歌も何かで拝見した事あって、確かこの記号性に対する批評的意味合いが含まれてて

いい発想だなーと思ったことがあった。

今ちまちま書いているヨミガタリ前提の歌で、これをつけてみた歌を作った。

ト書きの一種として読んでいただくとき、どういう表現になるかなーと

今から興味が湧く。

読む人によって(笑)に対する印象が違うだろうし、その差異はどこらへんにあるのだろうと思う。

私の呼吸も、読む人の呼吸も共に暴かれるヨミガタリ。うふ。

そうだねー

今は旦那さんについていってアメリカにいる歌友。

共通して好きなアーティストの1人にQUEENがいる。

メールもしたいけどメアドを忘れてしまったという・・・・元気かねえ。



たぶん何がいいのかと言えば、声なのだと思う(結局そっち)。

フレディーって美声だなあとしみじみ思う。衣装は別として・・・。彼をしばらく見てから

他のメンバーを見ると「ああ、普通の服だ」とちょっとほっとするw




好き好きKiller Queen(何故に毛皮・・・)




揺り動かす、という意味があるのだねえ<Rock You




アカペラでBohemian Rhapsody

全部声ですよ!是非聴いてみて!

2010年10月28日木曜日

年を経て熟し枯れ

ある歌舞伎役者の方が対談か何かで言っていた。

「若い頃や中年期には身体もよく動いてはいたが、役の性根を掴むには未熟であった。

しかし60~70とようやく役そのものに振る舞えるようになった頃、身体の方がついていかなくなってくる。」

その際の工夫が難儀だが大事・・という話。



ああ、人を想うのも同じだなと思った。

そして未熟だった頃、がむしゃらにぶち当たりもしなかった。

推して知るべしな、今なのだなと。

No title

なんかかっこいい事やるなーとちょっと悔しい&羨ましい状態。

私もぐだぐだとしてられないわと、と歌も整理しなくては。

まだ刺激を受けれる分、そういう人間があちこちにいる分、きっと私は大丈夫。まだ奔っていける。

2010年10月27日水曜日

First Snow

札幌、初雪でした。

風情のないぼた雪吹雪だった。ああ、北海道らしい・・・。

シーズンには雪かきにうんざりしている我々、実は世代を超えて女性限定のある感慨があったりする。

それは「初雪の瞬間だけ、ちょっとときめく」のだそうだ。

本当に瞬間だけだけどw

園児も、女子高生も、奥さんも、OLも、おばあちゃんも、その時だけは

ふっ、と乙女になる冬の吐息。



また雪のぬくもりに包まれて冬を越す日々が始まるのだなあ。

積もるたびに、なぜか胸のどこかが軋む気がして

年々せつなくなる。

2010年10月25日月曜日

No title

下書き段階で、やっぱいいやと消してしまう。

この記事で3度目ですよw

キーボードの魔力、いらん薀蓄や偉い事を打ちたくなってくる。




12月号用の歌自体はもうあるので後は出すだけ。

さて・・・。昼寝でもしようか。

最近寝足りない。

分かち合っていた日々

基本自分が恋をしている時だけ、恋歌は作る。

現在形の思いこそが最上級の思いだと思うので昔の恋歌など見ると単純に

1作品としてしか感慨がなくなってしまう。Am I cool?

ところが音楽とかはそうもいかない。

共通して好きだった曲とかあって、その相手とは恋になる前に友情に落ち着いて

いい友人ではあるのだけど、たぶんその曲を聴くたびにその時の切ない事を思い出すのだろうなと思う。

ちなみにその曲はJAZZ。・・・YOUTUBEのお気に入りJAZZばっかw

これから先寄り添うことはないだろうけど、音だけは傍にいる。




Ella Fitzgerald 彼女を教えてくれた彼に感謝。

2010年10月24日日曜日

ゴミ出しをするついでな歌作

今、わたしのパソコン周りにあるものをとりとめもなく列挙してみる。

多分靴下を買ったときについていた値段のタグ(の外したもの)。

リキッドファンデーション。

マグカップ。

ガラスコップ。

3色ボールペン。

携帯用のねじドライバー(マイナス)。

つまようじ。

食パンを買ったとき袋を止めているプラスチックの留めるやつ複数。

輪ゴム。


まあ、こんな感じで雑然としているw片付けないさいよという話は置いといて

なぜここにそういうものがあったりするのかは様々な理由や要因があって

それ即ち私の日常の根底を支えている部分でもある。

それらが置かれるに至った状況を遡って思い出し、時にはその状況そのものだったり

そのものずばりではなく、思い起こしての感想だったり、単なるずぼらを己の根底にある渇望みたいなものに

こじつけてみたりと。

掬いとり、掘り起こし、繋いでみたり、そうした後でそれらをリアルへ呼び戻し

片付けたり捨てたりする。軽く机の上でも拭いたりするかもしれない(かも?)。

そしてそれだって歌にはなるのだ。「そこに在る」という意味があるのなら。



基本何かを「つくる」ということに熟考はする。他愛のないことでも大事な事でも

結論が出なくともただ「考える」という行為がかなり好きだが、歌の題材探しに無駄に悩む事はしたくない。

自然な呼吸と考えると机上の上で頭を捻るのはあまりにも自分にとっては不自然だ。

日々の繋ぎ繋ぎの瞬間に立ち止まり、目を凝らし、耳を澄ます。

寝過ごして、髪も梳かさず地下鉄の駅まで大股で歩く。そのリズムだって歌だ。

燃えるごみの日をまた忘れて、置き去りになっているごみの袋も

ぼんやりした頭で考える今日の予定でも

目の前の男性の薄い頭頂部の現実から逃れるための歎美な妄想でも



日常に組み込んでしまいさえすれば、あらゆる深層からの気づきが暮らしに溢れている事が判ってくる。

それらを掬い尽くすにはいくら生きても足りないし、先が見えない。

それが楽しくて生きているし歌という形に未だ飽きていないという事なのだろう。



そんな事を考えながら茹でたパスタはまた腰のないアルデンテなのであった。

しかし、歌のネタが出来たと思えば不味くもない。

2010年10月23日土曜日

Moon Music

歌ほぐしや和歌など月が続いていたけど今夜は満月らしい。

音と目で楽しむ月見。





こちらは手嶌葵のMoonriver

2010年10月22日金曜日

いにしえの・・・

色々な意味合いや物語を感じさせる古典はさながらスタンダードなJAZZのよう。

百人一首にもいくつか好きな歌がある。それこそ言葉そのものの流麗さや美しい調べもあるが

そのフレーズに幾重ものイメージが浮かんでくる様を楽しむのが好きだ。



御垣守(みかきもり) 衛士(ゑじ)の焚く火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ 
大中臣能宣


篝火の灯りに揺らめく心、刹那的に「作りこまれている」歌であるけども、酔わされてもいいな、と思える。




風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな            
源重之


同じ恋への悩みでも更に激しく熱い。似たようなスタンスの女性歌人の歌の湿った風情と比べると、

実のある切なさというのがリアルに伝わってくる。泣き節はどことなく嘘っぽさを感じてしまうからか。




秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
左京大夫顕輔

古語では「影」は「かがよう」が語源だそうだ。つまり影だけではなく「光」もセットだった。

いつくらいから影は影でしかなくなったんだろう。

見えぬ真理を照らす影をこの歌から思う。



あなたの心を今照らしているのは何ですか?

光にせよ影にせよ、惑う足元を照らすものであればいいと願います。

2010年10月21日木曜日

No title

できましたー。

我ながら書いていて思うのは、どうしてこういう詩形式になると

自分と思えないほどセンチメンタルになるのかw(しかもダメ男チックな主人公だ)ちょっと恥ずかしい。

元来音(おん)を考えて歌作する傾向なので、メロディが載っているという設定で書いている部分もあります。

ホントに曲つけてみると面白いかもだけども・・・・。でも作詞というのはちょっとやってみたいこの頃です。

歌と微妙に違う脳の回路を使うようでその時の発見が面白い。



夕待月(ゆうまちづき)



見上げた暮れる少し前の
空にひっそりと白い月
満ちるまであと少しのその横顔が
置き去りにした夢に似ていた

普段どおりの今日が終わり
そっと頁を閉じるように
変わり映えのない明日のために
かかとに引っ掛けた心すり切らせ帰る

思い出すたびに
優しい記憶だけがまだ残っている事
癒されるけど、でも
そんな繰り返しもまた空しいんだ
ビルの切り立つ街の闇に
夕待月はとり残されて
時の経つ早さとせつなさに
ただ微笑んでいるだけ


季節を重ねて無為に無駄に
過ごしてきた僕を笑うだろな
はじけて笑っていた君との日々はきっと
月の欠けた先の彼方にある

帰りの電車の窓越しに
ゆっくり想い出も追いかけてくる
今夜の夢に間に合うように
なのに走り切れずに遠ざかる現実

もつれた絆を戻せなかった
拙いあの頃の僕
前のめりで走ること諦めても
つま先だけは同じ先を見つめていた、そうだった
目覚めれば何時もと同じ朝かもしれない
それでも少しは変わっているのかもしれない
ほんのり佇む夕待月
皆の夢の夜道をそっと照らす

僕の夢の夜道もそっと照らす



あの五行歌からここまで拡げてみた。

で、それをさらに五行に戻すとなると

一つの歌じゃ足りなくなる気もする不思議。

自作の場合だとやはりパンチと切れが持ち味(しかしそれすらあるのか怪しい)という確認が出来たのは収穫ですw


これ、またやってみよう。楽しい。

歌ほぐしの考察

あれは前にmixi日記でちょっとやってみた、「知り合いの歌人さんをイメージした五行歌即詠」に

ちょっと似た感覚も受けた。

あれは歌人さんの人となり、作品の世界観を含めてイメージとして歌い上げる・・・といった感じだったけど。

昨日の歌ほぐしに関しては、あくまで自分的に長らく使ってなかった感受性部分を(だってほんとに書いてなかったからねえ)

引っ張ってねじって緩ませるストレッチ感覚のイメトレなのだ。

何らかの対象に添って呼吸も添わせる、訓練的な意味合い。

今までしたことない方法論だからということも私にとっては大きい意味である。

でもきっと行き着く先は今までやってきたことと同じなのだ。ベクトルの違いなだけで。


歌うということは本当に自由。

頑ななまでに進むのも、その時々で緩ますのも。

基本前傾姿勢ではない。

ただ自分が更新されたいだけ。

2010年10月20日水曜日

浮かぶときは

今日の夕方、日もくれるのが早くなったと思いつつも空を見上げれば

月が見えた。

帰路につく人、仕事へいく人、それぞれとすれ違いつつささっと歌にする。



夕闇前の

とり残されて
なお
微笑む



推敲なしのすかすかだが、これを少し加工してみる。

瞬間の凝縮を、表題のごとくほぐし広げて散文にして、一つの詩のような形にする。

自作であるがゆえの気楽な実験である。


さて、まずは前出の五行からあれこれとイメージを書き出してみる。

一日の終わりに浮かび上がる懐かしい思い出や失くしていった夢の象徴としての月

そんな情景が浮かんだ。

時間が経つという切なさと優しさ、シチュエーションはこの歌が浮かんだ場所のビルの

立ち並ぶ街角が落ち着くか。



そんなこんなでちまちまと裏で組み立ててみる。

2010年10月19日火曜日

やわらかく揺るがず

普段の力配分はそのままで

こんな風に意識してみて。息を溜めて溜め込んで、


一気に吐き出さないで、そう。


お腹の中で漂わせ、身体のすみずみまで行き渡らせ


ふわっと(そっとじゃなく)

吐くの、音をのせて。


ただ吐くよりずっと伝わるはず。


気負わず、重なる呼吸のひとつとなれる貴方であるように。

あてもなく言葉を綴るたのしさよ

やはり何かを創ることは楽しい。

自分の人生の意義を思うときやはりそこにたどり着く。

置いてきたもの全ての代わりになることはなくとも。

綴る事でささいな発見が出来たとき、未知のものを見出したとき、まだ見ぬ景色を垣間見えたとき

己が己である事の寂しさを味わえるって贅沢だなあと思うのである。



日々が追い剥ぎのように「己」を奪い取っていった空白はまだまだある。

いっそ誰かに埋めてもらうのも悪くはないのかもしれないけれど・・・・。

2010年10月18日月曜日

わたしは貴方の愛の奴隷

「マカロニほうれん荘」(知ってる?)でマンモス稲子さんが歌っていたのはこれだったのか!と
最近発見した。



よく聞くとすごい歌詞だけど時々無性に聞きたくなる。
圧倒的なものってもう個人の好き嫌いを超える。

2010年10月17日日曜日

明日になれば

雨があがって、半襦袢が乾いていれば着物着て歌会だ。

��年半ぶり?になるのかな。

とりあえずよく着る角通小紋を羽織ってみる・・・・思ったより太ってないはず・・w

髪が伸びっぱなしなので結わなきゃだけど。

いない間も私のことがよく話題になるらしい。



帰り着くとこは、自分の心の中。そんな歌を昔書いたけどまったくその通りだ。

��年半前より、どうか豊かな寂しさであるように。

ちょうど150回目だった

「F島さんお久しぶりでっす」

「おおー久しぶり!それでさぁ・・・」

何の話の続きですか?w



そんな感じで始まった久々の歌会、1年半ぶり?と思っていたら、ちょうど3年目なんだそうだ。そんなに!

きりのいい回数の時に出席できた。新しい方も来られていてそれでも相変わらずの

明るい、ゆるい、札幌歌会でした。忘年会はバイキングだというので楽しみ(歌は?)


何だか代表復帰が規定路線になりつつある・・・・。

色々わたしが来なくなって役割分担ができているので、前のように私一人全部やらなくてもすむ様になった。

皆さん成長したのだねえとしみじみする。



あ、来月号久々に歌が載るはず・・・。テーマ「鍛冶屋」

ささやかな意義があるとすれば

人間しかできない「表現する事によって人為的に感動を生み出す」ということ。

それはアートだったり歌だったり演劇だったり詩歌だったりするだろうけど、ある種の人にとっては

「ふーん、なにそれ?」の世界である。

でも思うのは、あえて「なにそれ?」と感じる人側に向けて発信されることに表現するという事の意義があるんじゃないのかなと

なんとなく考える。

例えばそれを見たり、聞いたり、読んだり、触れたりしたことで

受ける側がほんの少しだけ(ここが重要)心が開放されたり、風通しがよくなったり

転んだ傷の治りが早くなったり、また明日を歩ける力を回復させたり、心を豊かにさせたり。

ストリートライブやパフォーマンスなど見るとその原初的な力をとても感じる。

受ける側の深層に「ほんのすこし」を積み重ね続ける。



自分にとっての五行歌は実に個人的なものではあるけど、こういった表現する行為って

感受する側にどういう効果をもたらすものなのかとも思う。

でも私は結構ひねくれてるので「詩歌って素晴らしい!」とは簡単には言えない。

発信する側、受ける側、相対的に考えた先にその答えがある気がするから。

2010年10月15日金曜日

狭まる、というおそろしさ

思うごとに広がっていくというが、時々何気に自分のキャパシティというか

感受性の幅が狭まっているんじゃないか?という怖さを感じる。

周囲半径100mの範囲で満足しているのじゃないかと。いやだいやだ。

得意の取り越し苦労かもだけど。

2010年10月14日木曜日

手のひらの種

歌会プリントとかの作成とかしていた時もあるせいか、誤字脱字が一番へこむなあ。

ご指摘くださった方ありがとうございます。訂正しておきました~。

慰めついでにmixi日記がアクティブだったときにも貼ったものをここにも貼ってみる。




私の冬はいつまで続く?

2010年10月13日水曜日

thank youです

テストがてら書いてみる。

使ってて実感しているけどFC2、すごく高機能。そして使いやすい。

かなり痒いとこまで手が届きます。

左側にツイッターのブログパーツを置いてみた。

別にアカウントは持っていたけど、新たに作成。

たぶんぼやきが多いと思われます・・・。

思うにわざわざ伝えたいほどのつぶやきって早々ないよね(本末転倒)。

伝えたいのなら歌にするし。

でもツイッターで歌を載せる気にもならず・・・。

基本読み流しなツールじゃないだろうか。なんだろう、自分にとっての歌って

ぼやきやつぶやきであるけれども、歌は歌なんだよ。微妙なニュアンスですが。

特別な想い出

終わった恋って忘れるけど、初めて告白してくれた相手って忘れないよなあ。

と、なんとなく雨宿りしながら命日はまだ先なのになぜか思い出した。

しかしそのあと、ときめきと人間のずるい部分を同時に垣間見たのだった

きっとあそこで私の時間は止まっている。

今もまだ。

2010年10月12日火曜日

妥協の銘

座右の銘は何気にあるけど、指針というより自分が例えば人生やることなすこと行き詰った際に、

上手い具合に気持ちを安らがせて妥協へのきっかけとなってくれるかが判断で選ぶ気がする。

どこかで「言葉ごときで人生は変わらないだろう」という気持ちがあるので、それだったら無意味であろうとも

緩和剤的エッセンスがありさえすれば何だっていいじゃないか?とも思うのである。



促音とカタカナの伸びやかさが絶妙かつ、心でつぶやけばなんとなくそんな気にもなってくる

素敵な言葉。


結果オーライ






流麗なメロディを醸し出しつつ、すっと心に入り込んでくる衒いのなさ。


後は野となれ山となれ







あと最近発見して、これこそまるで私の歌のスタンスそのものだ!と感激したのがこれ。


魂で誤魔化せ!






そう、誤魔化すと言った以上は逃げ場はないのだ。そういう隠れた意味も伝わってくる。

逃げない人間だけに、妥協の銘は優しく輝き明日を導いてくれるのだと思う。

2010年10月11日月曜日

時代性とか大衆性とか

kiss.png


感受性や物を見る幅が固まってしまうかもしれない。年を経る怖さを思うのはそういう時。

誰しも覚えがある、理屈じゃない恋の原因不明意味不明瞭な疾走感。

どうかどうか(わたしが)忘れませんようにと書いた。

観念的日本語ロックな歌だけど、女だって「やめられねぇ」のである。


人によっては「この言葉は使わない」とか色々ある。カタカナは使わない、という人も前はいたような。

自分の歌に関しては、その時の自分の表現したい思いと違わないなら、カタカナでも外来語でも略語でも

構わないなと思っている。「~というか」→「~ていうか」→「てか」といったように今風に言葉も

短くなってきているけど、個人的には「てか」はOK。つなぎの行に使うと面白そうではあるし

何よりその時代でなくては語れない内容であるほど、歌全体の伝えたい事の邪魔をしない限り

使っていけばいいじゃないかとも思う。



知人とツイッターについて話したことがあって、あの規定文字数が人によっては「少ない」か「多い」かで

楽しみ方も違ってくるだろうけど、携帯メールを使い慣れていれば実になじみやすいツールでもあるし、

他人のつぶやきをリアルタイムで鑑賞するというスタイルが、今の時代の他者との距離感の取り方にも通ずるものも感じたり。

逆に論理的に物事を考えたり構築したりする意識がどんどん希薄になるのでは?という意見が知人から出た。

それもそうだろうけど、ちょっとセンスのある人なら使い分けの柔軟性は持ってたりするのじゃないかなあと思う。

でも昨今のブログなど読んでみてもセンテンスの短い文章がすごい多い。

そして読む側もそういう短さを求めているきらいがあるのかもしれない。

五行歌などはまさに時代にあった部分はあるけど、ただ、これ歌作だけに限らず延々と悶々と考え続ける根気みたいなもの

ベクトルが正反対なその部分の必要性。効率も考えればいいけど、無駄も必要だよねという。

「五行で収まってるからいんじゃね?」みたいな若人が出てきたらなんか大変そうw

そういう葛藤もこれから出てくる可能性も無きにしも非ずだよなあと思う訳である。

洗濯機の藻屑と・・・

今しがた洗濯をしていて、すすぎをしようと蓋を開けたら


一面になにやら紙のような屑が浮いていて、ポケットにティッシュを入れたまま

洗濯した覚えはないのだけど・・・と思いつつ、中をかき混ぜて見ると

何やら覚えある文字が書かれていて・・・・・




これは・・・・・・・・・・・・・・・・・・もしや・・・・・・・・・・・・



洗濯物を掻きだし底を探ってみると・・・・あった。



本一冊が(泣)



洗濯物が紙だらけはいいとして、本が・・・・本が・・・・・。


ちなみに洗濯機の藻屑と消えた本はこれです。
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古い言葉や「あの言葉にはこんなルーツが!」というような発見もあり、字引式だから読みやすいです。
時代劇以外にも時代小説や歌舞伎などでも参考になると思われます。


しかしいつの間に入ってたんだろう・・・・。




あぁ・・・。

2010年10月10日日曜日

某レンタル

割と好きなジャンルに関しては止まりません。

ウェスト・サイド・ストーリーのナンバーで好きな曲は「Maria」なのだけど

結構歌い手によってかなり差が出る感じがする。

ホセ・カレーラスから布施明まで聞いてみたけど、個人的にはこの人の歌い方が好きだなあ。



ベルナルドは絶対男前でなきゃいけないけど、トニーは洗練されてなくともいい(しかし歌は上手くなければいかん・・)。

ストレートに伝わるものがあれば。Mariaになりきって聞いてみてくださいw


感動を切り取って再現できる表現ツールはそんなに多くない。

写真はその一つだけど、もちろん五行歌だってそう。

外からの感動は確実にわたしの表現の幅をも広げてくれる。

どこかで誰かが今日も奏でるメロディーを、探す毎日だ。

2010年10月9日土曜日

香と音

香道では香を「聞く」と表現する。



では音も香りがあるのかしら。



あなたが燻らせる音は



どんな香りを醸し出すのだろう。

Favorite musical

歌舞伎とかミュージカルとか宝塚歌劇とか、二十代最初くらいから好きで、多分専門学校の頃の友人が

ヅカファンだったのでその影響もある。たしか最初に買ったビデオが「巴里のアメリカ人」だった。

ジーン・ケリーのダイナミックなタップダンスもさることながら

主人公の友人のピアニストの役で出ていたオスカー・レヴァント(アステアの『バンド・ワゴン』にも

出演してる)の味のある存在感が結構好きだった。日本人であの味を出せそうなキャストは誰だろうなあ。




ジョージ・チャキリスがかっこいいいのだ。外国人にあるまじきなで肩だけどw

チタ・リベラは「雨に唄えば」にも出てたねえ。








そして巴里のアメリカ人。

場面ごとに実際の絵画の世界がイメージされている。

ファニーフェイスなレスリー・キャロンは踊っている時が一番可愛い。




CAT'Sから。

この鉄道猫を見るたびにキュンとくる。



そしてラム・タム・タガー。Sexy。




レ・ミゼラブルの10th Anniversary Concertから。

リア・サロンガは「アラジン」のプリンセス・ジャスミンの声をやった方。




オペラ座の怪人から。

個人的にこのナンバーが好き。

かぎりなく純愛だからこそ、記憶や心に残るものなのかも。

Letter

たまに置き去りにしてきたものが巡り巡って形を変えて戻ってくるときがある。

でもそういう時は大抵いつも遅すぎて。


もしあの時出会っていたのが、あなたのような人だったら

変わっていただろうか。


いえ、それでもきっと愚かな自分は、何時もの癖のように雨の日なのに傘を置いたまま忘れ

わかりきったような口ぶりで「そんなものだ」と土砂降りの中歩き続けていただろう。

色々あってこの年代で出会えたのがよかったのだ。

巡り会えた感謝と余りに遠い距離に絶望しつつ、それでも同じ時代で

きっとこうして同じ夜、言葉を綴っているのかもしれない時間を共に過ごせている事が嬉しい。

いつかどこかで、あなたの声を直に聞かせてね。

そしてお酒はほどほどに。

ではまた。

2010年10月8日金曜日

今しがた

自分で200アクセス踏んでしまった・・・。


それでも足を運んでいただける方もおられるのはちょっと嬉しい。

たぶん五行歌関連のリンクから飛んできてる方が多いと思われますが、いかがですか。

きっと大した内容でもないことにがっくりなさった方もいる・・・気がする。

自らの内から生み出す事に関しては真摯たれと思いますが、それ以外のことは結構適当です。

世を憂うでもなく、昨今の政治への憤りを耳にしても

「私だって親からは、ほぼ世間様に丸投げされたようなものだわ」とも思い

丸投げのリレーで循環されているのが社会でもあるんじゃないのか?とも。

今できること、やれることをするだけ。

混沌とはしてるけれど、何にせよ大人になって今生きているこの瞬間の

なんと生きやすいことか。首相が誰だろうがそれは変わらない。

子供の時分は扶養家族ゆえの不自由さに「はやく大人になって自立したい」とか

そればかり考えていたものだけど。

今の子はどうなんだろう。きっと昔よりはずっと自由なようでいて不自由なのだろうな。

そしてそれをどうすれば解決するだろうかと、考える力さえつけてもらえてないのだろうか。

2010年10月7日木曜日

旅先案内人失格

自分の人生すらふらふらと歩いているのに、よく人に道を尋ねられる。

しかし、スマートに教えて差し上げられた試しがほとんどない。

観光都市札幌市民としてカメラのシャッターを切るのと同じくらいに当然のホスピタリティだけども

どうも一丁目ずれていたり、表通りのつもりが裏通りを教えてしまったり、ありもしない目印を

憶測で教えてしまったり(これは酷い)なかなか上手くいかない。

大抵観光客10人のうち9人が聞くのが時計台の所在。

案外あれって想像より結構こじんまりしているので、見つけづらいらしい。

確かに前「時計台どこですか」と時計台のほぼ目の前で聞かれたことがある・・・。

そしてこれ!といった目立つ目印もないので、教えるときにちょっと工夫がいる。

問題はその道を聞かれた時の場所である。

その場所をスタート地点として道順を整理して教えなければならない。

これ、大通西4丁目で聞かれれば楽なんだけど、大通西8丁目とか非常に微妙な距離からだと

妙に悩む(我侭なw)

あと、東西南北の碁盤の目で整理されている中心部の区画だけども、それがどうやら

方向感覚を麻痺させているみたいで、前にJR札幌駅(北方面)へ向かっているつもりで

すすきのを南へとひた歩いている観光客のお嬢さんに道を尋ねられた事があって

正しい方向を教えたら愕然としていた。で、それが二回ほどあった。



なんだか地元ネタで申し訳ない・・・・もの思い関係の記事は眠くなければアップするかもです。

恥を恐れるな





荒野から見上げれば秋空。そんな感じの好きな曲。

今は無きHUSKING BEE・・・(再結成しないかなー)

私が彼らの曲が好きなのは、その都度聴くたびに違うかたちで胸に迫ってくるからか。

無色透明で、ロックで、ぱさついて、どこかに涙の跡が残っているような。

こういう五行歌作れる日が来るのか・・・来ないかもな・・・・。

云わば自分にとっての歌作って、あくまで自分が着たい服を作る自己満足のオートクチュールなのだ。

もちろん「わたしも着たかったの!」と着てくれる物好きな方もいたり、それはそれで嬉しかったりもしますが。


これは良くも悪くもない意味で、自己満足の延長なんだと突き放した眼差しで「自覚」して歌と向き合うって

結構大事なんかなと思ったり。

ふふんと、表題のごとく開き直ってみる。

若さの特権(いや、もう若くもないんだけどw)ってそれくらいなものだ。

2010年10月6日水曜日

みずからにそしてあなたに

他人の名言に
感心ばかりしていちゃ
だめだぜ
あんたの指針は
あんたが作るもの


うん、そうだ。
だからもう、私の中から生まれるものに関しては
私自身の足元しか見ないと決めたのだ。



あなたはどう?

2010年10月5日火曜日

久々の本誌感想

今日の札幌は雨。


久々にまともに見た歌誌。

そして久々の王生さんの歌はやはり王生さんでとてもよかった。

なにげなく持ち上げて最後に突き落とす、そしてその突き落とされたい側に

読む側がなりたくなるのが魅力。

塩辛と濃厚チーズケーキを交互に食べたようなこってり感。





そして巻頭の野村さんの歌。

「晩鐘」のシーンのような。働き通した手の年輪は

うつくしく、強い。

漁師をしながら画道を極め続けた木田金次郎の手もこうだったろうか。

そして彼ならどういう風にこの手を描くだろうか。

2010年10月4日月曜日

歌のリアルと虚構

私の住んでいる札幌にある大通公園には前出の石川啄木の歌碑がある。


しんとして幅廣き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ


結構前に芭蕉の「佐渡に横たふ・・・」の句の実際を聞いて以来、

��常に荒れてる佐渡の海に天の川が映るわけはない)虚構であるからこそ

完成される世界というものもあるということを知ったのだが、この歌碑を見たとき私が気になったのは

「啄木は実際焼きとうきびとか食べたのか?」

ということだった。

歌以前にこんなしょうもないことのみに興味が湧く私w、疑問の赴くままちょこっと調べてみた。

どうやら明治中頃、札幌市平岸村(現在の私が住んでいる地域だ!)の農家がとうきびを焼いて街角で売り始めたのが始まりという。

地元に住んでいたけど歴史は古かったのねーと妙に関心。

ちょうど啄木が滞在していたときにはもう街のあちこちでとうきび屋台があったそうだから

まさにこの歌の通りの光景だったことだろう。

でも実際食べたのかどうかはさだかではない。街を歩きながら匂いだけを楽しんでいた(お金ないし)のかもしれないし

買ったのかもしれないし、焼いたのじゃなくゆでたのだったのかもしれないし、こんな妄想で秋の夜長を楽しむのも面白い。

秋、ということはとうきびもラストシーズン。過ぎ行く季節の哀愁と共に立ち上る焼きとうきびの煙が

思い浮かんでくる。

個人的には大の男が蟹と戯れて泣いたり、己のダメさ加減にじっと手を見る歌よりは好きだ。


しかしこれジャンル分け「もの想い」でいいのか・・・。

JAZZ like old clothes

英語でチャットをする時、決して流暢じゃないのでウェブ翻訳も駆使しながらやったりするのだけど

ただ、サイトによっては妙な訳も結構あるので訳したものを更に訳するとか、使い分けをしたりしている。

もっぱら最近はグーグルとエキサイトを併用中。


歌をほっておいてた(?)この歳月何をしていたかと思えば、YOUTUBE三昧の日々でした。

働きづめだった脳を一度ストップさせて、メロディという風を送り込んでいた訳です。

詳しくなるときっとつまらないので単純に楽しむようにしているJAZZなどは、私の好きな

古めかしい感じのものが多々あるので嬉しい限り。

なんというか、飲まなくてもすむけど飲むと安心する「水」のような存在のJAZZ。





昔のエディ・パルミエリ。ラテンっていいなあ。




そしてデューク・エイセス。これを見るまでこういうジャンルを歌っていたのか!と
驚愕でした。そしてかっこいい!!




ハリー・ベラフォンテとナット・キング・コールの共演というある意味レアな動画。
二人の歌う姿がえらくチャーミングです。



こちらは比較的最近。踊りだしたくなる音。彼はまだ20代ではないかしら。

こういう音を聴くと、定型を抜け出しつつしかし定型でもあるという五行歌も

もっと遊べる部分を探せるべきじゃないかなとか(もちろん自身に対しての事)

思いを馳せたりする。

言葉の自由さと不自由さ。もっと切実に真摯に摩擦させていかなくては。

そして、遊ぶように息をして、かたちにするのが理想形だ。

2010年10月3日日曜日

手を止めてもの思う

現在2004年度からの作品をwordに入力しているのだけど、2005年12月あたりで小休止中。

この頃はたしか・・・恋愛ごとも事件もなかったが生活だけは切迫していたという

なんとも無味な時期だったような気がする。

だからなんとなく歌も無味で(それは今もか)それに対してしみじみするたび

キーボードの手も止まるという・・・。古いアルバム整理して見入って時間が経つのと同じですね。

なんだろう、平穏な暮らしに憧れて、つい最近までゆるゆる暮らせてはいたけども

それまでいかにおざなりに日々を過ごしていたかが、穏やかな時間の中だからこそ

浮き彫りにされてきた感がある。

そこから少しずつ、「取り戻せないものもあるんだなあ」と自分を納得させていって。

そこから前出の日記に繋がるわけですが。



新たな感情で空虚と向き合うこの時間も、いつか意味あるように熟していくのだろうか。


話は変わって、久々に啄木の歌など見たんですが、あの友人たちが偉く思えて妻に花を買う歌を結構勘違いして覚えてて

ちょっと申し訳なく思ったり。

あれは妻に花を買うという行為で自分の遊興ゆえの貧困の償いをしているのかと思いきや、

奥さんも自分で花を買ってきたりしていたそうで、綺麗なチューリップやフリージアに夫婦して

救いを求めていた部分もあったのだなあと思った。

誤魔化しだけじゃない気持ちもあったのだろうなあ、すまん啄木。

でも誤魔化し7割ほど強く感じるのはわたしだけだろうか・・・w

この人の作品の突っ込みどころの多さはそれだけ普遍的な人の感情の矛盾性と

繋がる部分もあるから今もって愛読されているのだなあと綺麗に終わってみる。

2010年10月2日土曜日

空白という選択肢

今の今まで、やっきになって自分の中の欠けている部分や

持っていないものの空白を代替品で埋めようとしてきたけど

何も埋めない、という選択肢もあるのだなと気付く。

で、その空白を

安易に寂しさとか悲しさという表現で落ち着かせたくないなとも思う。


いたい、つらいの歌はもう書ききったなんて言えないけど。

そういうもの一切抜きで書くことにすべてを委ねられれば最高なのだけど。