2010年12月31日金曜日

心を動かすものを見つめる

それぞれの琴線があると思う。

私だと例えば抽象具象有機無機生きてるうえで経験する様々な事柄から

ふっとそのものの本質を見出したときが一番心を動かされる。

美醜正否関係なく。

そしてそれをなるべく写実的に描きたいので、なんだか赤裸々になってしまうのである。

もはや1月号が届きましたよ。

お風呂掃除を終えてゆるゆるな時間、ゆるゆるに感想を。



ポッサラッセさん(この脱力しそうな筆名のセンスは私の中で「パンとあこがれ」さんと双璧です)の巻頭。


これはさえちゃんが賢明ではないでしょうか。

ある意味子供が子供らしくいるのが難しい時代でもあるのだけど

荒波から守ろうとするから出口がなくなっていく気がする。

荒波をどう乗り切るか、その子にとってより良い方法論を一緒に探せばまた違うのではないか。


水辺灯子さんの特集。


寿ぎの光景に奥行きを感じさせてくれているのは、昭和六年生まれのお父様の歌2首。

これがあってこそこの特集の深み、輝きは成り立っていると思う。


しかし素敵な秋の歌が多かった。

秋なあ・・・きっとその季節が来る頃にはそういう葛藤も忘れているのだろうけどもw

No title

普段使いのPCが起動しなくなったのでただいま知人の所へ宅配で修理に送った。

投稿歌や歌集やらなんやらのデータが入っているのだけどどうなることやら(ハードが無事でありますように)。


さて、こちらのブログで歌会での欠席歌の取り扱いについて書かれていた。

小さい歌会ではすべてを代表さんがこなさなくてはならない部分もあり、それでも事務方のご苦労は察して余りある。

好きでやっている事とはいえ次第に気持ちも身体も疲弊してくる気持ちはつくづくわかる。

様々な歌会での対応もあるけども参考になるかどうかだけど札幌ではこんな感じでやっている。


代表=本部からなどの連絡、郵便物窓口。歌会場所の予約。忘年会の場所決め(笑)
会計=主に会費の管理。本部会費の支払。
プリント作成=歌会でのプリント採点票制作。ちなみに北海道として年1の持ち回りで全道歌会分の
月々の歌会作品をプリントしている。(現在は旭川)その為のプリント送付。



会計やプリント作成係が休んだ場合、周囲のどなたかにフォローしていただく。

司会に関しては持ち回り。場所が大きめのカフェなので飲み物代はなどは会費から賄う。

北海道だと交通の便や距離的にも欠席歌、という状況になりやすいが欠席歌においては

提出時に送付してもらうかどうかの確認が出来れば送る。(郵送代節約のため)

歌会が発足して10数年経つがその間2人の歌友が逝去している。

他のようにうちの歌会でも年配の方は多い。一様にお元気でおられるけどもそれに甘える訳にもいかない。

今現在パソコンを使えてプリント作成してくれる方はいるが、もしもの時そのフォローが出来る人がどれだけいるか。

会計にしかり代表にしかりである。

無理にどうこうというのではなく、寧ろこういうのは常に歌会に参加している一人一人が

「もしも」を前提にちょっと考えてくだされば非常に助かるのだという話だと思うのである。

2010年12月28日火曜日

花鳥風月のずれ

久々にあれこれと書く余裕が出てきた。

歌を纏めている時は脳の神経一本一本が張り詰めた感じになっている。

眠いのに「寝るな!」と脳に起こされているような(危険なのか?)。

ものすごい真剣勝負な訳ではないのに不思議なのだけども。





叙景歌の数々も纏めていたのだけども、書いている季節にえらく偏りがあることに気づいた。

現在住んでいる北海道という土地柄のせいかとにかく冬の歌が多い。

寒さで意識がクリアーになるのか言葉も生まれやすいみたいだ。

そして意外にも次に多いのが春の歌。

しかも冬から春へと変わりゆく瞬間を描いたものが案外多い。

キリキリとした冷たい空気が、ふっとゆるむ。そのやわらかな感動は

北国ならではか毎年ほっとする時である。

俳句などで季語に親しい方ならわかっていただけるだろうがこちらの四季のサイクルは本州とは違う。

��月にはどう頑張っても梅は咲かないし、桜にいたっては5月初頭。(でも連翹は律儀に暦どおり咲いたりする。)

本来それぞれ違う月に咲く紫陽花、向日葵、コスモスも夏になったら一斉に咲くのである。

風土の違いゆえの面白さもあるから然程こだわらず書いてはいるけれども、もっとその部分を

描ければいいなとも思う。

次回の3作目は多分叙景歌を中心になるだろうけど、ネタばれっぽいけど

秋の歌が一個もありません(笑)

何でだろう、書いてはいるんだけども載せるには及ばないというか・・・秋ならではの情景の美しさはもちろん

理解してはいるし、着物も着るくらいだから和な美意識もまったくないはずではないんだけども。

どうしても無難にステレオタイプな秋のイメージに終始してしまう。紅葉の美しさとか。

それにこっちは夏終わったなあと思ったら冬来るの早いしw

特別な感慨が個人的にないのかもしれない。好きな季節なんだけどねえ。

2010年12月27日月曜日

No title

勢いづいて第2作目の歌集ができました。
http://p.booklog.jp/book/17294

たぶんこのまま漢字1文字シリーズで行く気がする・・・。

あとは叙景歌シリーズと感覚派っぽいの(そんな高尚でもないか・・・官能でもないんだよなあ)を

来年あたりにでもアップすれば4部作完成になるのか。

2010年12月25日土曜日

Present for you :))



歌集の整理にかかりっきりなせいか神経がぴりっと張り詰めて寝れません・・・w

今夜は大丈夫かしら?

Good Night all :)

2010年12月24日金曜日

未分類な想い

��部作くらいにしようと考えてはいたけど、思っていたより書いている歌が多かった。

大体の数字で換算すると、1998年~現在までの掲載できるかな?という感じの歌の数が

��00近くになるはず。

もともと組み立てて作る方ではないし、ムラも激しい。

これを3部に分けるとなれば100弱になるので更に削る。


大体「景」「暮」「胞」といった題か。


改めて自分の来し方というか、ルーツ的なものを再確認できたというか

これを踏まえてどう歌と向き合っていくかも考える事が出来た。

本当の初期の初期の拙さは恥ずかしいを通り越して不思議に微笑ましく感じた。

吐き出すに終始した年、想いと重なる言葉が出なくて悶々とした年

掲載する際選ばなかった、曖昧ではないけどあやふやな、それこそ未分類な歌が

ある意味その年の自身をすごく象徴している気がする。

そう簡単に一本筋が通るなら苦労はしないよ、と言わんばかりの息抜き感満載の。

へヴィーな歌と歌との間に入れる緩和剤は必要で。



・・・・4部で足りるのか、足らさせるぞ自分。

一足早く

この季節だったら「メリクリ」だけどこれが一番好きかな。



誰かの思い描いている夢の中に

自分もいるという幸せ。

自分の突き進む道程の傍らに

あなたがいるという幸せ。



善き聖夜を。

2010年12月21日火曜日

No title

電子書籍歌集~渇~
http://p.booklog.jp/book/16678

��7日に公開にして、663とかなりの閲覧数でびっくりしてます。

何だろうか?と思って読んでみて驚いた方もおられそうだが・・・

驚きとともに「五行歌とはなんなんだ?」という取っ掛かりになればいいのではないかとも

思っています。

人の数だけ歌があり想いがあり呼吸があり物語がある、そんな多様性が五行歌の売りのひとつです。



さて、次回は来年とか言ってましたが・・・事情が変わりました。

年末大掃除をもちろんわたしもやるのですが、その際積み上げっぱなしの歌誌も整理してしまわないと

と、思ったところ、はたと気づきました。



整理してからまた次回作の打ち込みのために引っ張り出すのか?


整理の意味が年明けからなくなってしまう可能性大・・・。


ということで


主要な歌を初期の歌誌から引っ張り出して打ち込みの日々がしばらく続きそうです・・・。

前もって打っておけば、大好き単純作業のコピペの嵐ですむのですよ。

字はね、もう少し小さくします・・・(汗)

元々デザイン系の小作業を仕事でずっとしてたので嫌いじゃないんですよね、加工とかも・・。

いい感じで泥沼です。

2010年12月20日月曜日

昨日、今日

新しい何かが開けたのと、元の居場所に戻ったのと

知らずに大きな感触が身に迫ってきたのと、

そしてささやかな想いが消えた。


そんなゆるやかに混ざり合った日であった。


歌会前に朝昼兼用のごはんをタリーズですませてぼんやりしてたところ

向かい側の可愛いカップル、さりげない距離を空けた真ん中に食べ物を置いて

仲睦まじく食べている。互いのを味見したり、食べ終わったごみを片付け合ったり。


ベンチでサンドイッチを啄むような恋。


することもなかったなあ。



連れ立って二人は雪降る街へと足早に去って行った。



あてのない手紙を書くのはもうやめた私だけど

この二人の軌跡に幸せを祈った。

そんな日だった。

代表というもの

今まで頑張ってくれていたSさんがしばらくお休みするというので

久々に歌会代表になった。

代表といっても事務局から来る郵便物や歌会についての問い合わせのの窓口としてが主だけど。

文芸結社それぞれの在り方もあるだろうし、私自身「長」と名のつくものになったこともないので

統率とかまとめとか、そういったことに無関心でありたぶん素養もないのだけど

自分なりになんとなく思っていた、歌会代表、というものについてちょっと記してみる。

そして歌会写真をまったく送ったことがない、ある意味謎のベールに包まれた?札幌歌会についての事も

せっかくだから書いていく。今回も写真撮り忘れたフォローのつもり。



��997年の発足だから結構長い。

そして「ヒマそうだから」という理由で代表に。当時は出来たばかりだったから、分業制にするほどそこまで打ち解けている部分もなく

現役で働いて多忙だったり、遠方から通ってきたり、家庭があって忙しかったりという人がほとんどだったので

それに比べればヒマ(でもなかったはずなんだが)な私が経理やプリント作成、司会など10年近くやっていた。

小さい歌会などでは、きっと代表1人が奮闘しておられるとこも多いと思う。

当時2~30代の私でさえ結構疲れていたのに、年配の方が多い他の代表さんだったらかなり堪えるのではないだろうか。


来年からは代表、経理、プリント作成と完全に分業制になる予定。朗読、司会は持ち回り。

歌作は個人的なものだけれども、人をまとめておくのとはまた別の話で

代表1人がひっぱるのではなく、他の方の協力があって歌会は成り立つものなのだという一人一人の意識って

維持させていくならば、やはり大事だと思う。

もちろん体調やどうしてもという事情があればそちらを優先させるべきだ。

出来る範囲で気を配る、というのが一番無理がない。無理があると綻びは出てくるから。



で、代表であるけども。

私の中での位置づけは「花見の場所取り」だ。それ以上でも以下でもない。

突き詰めるところ、やれることってそんなにない。

なんせ未だに歌会の中で一番若いので、熟成されている方々に対して

歌=人生について語れるものでもない。



皆が集まる前に茣蓙orブルーシートを敷いて待つ。

そのうち酒や肴持参で集まってくる。

なんとなく花見が始まる。

桜について詳しく語る人がいて

「へえ~」と感心して皆聞く。

「そういえばうちの桜もねえ・・・」と話し始める人がいる。

「ああーうちも」と言いだす人もいる。

不意に歌いだす人もいる。

不意に無言を楽しむ一瞬もある。

そして三々五々皆帰りだす。「いい花見だったねえ」と言いながら。

さてさてと茣蓙orブルーシートをくるくる丸める代表。

来月の花見を思いながら、後ろからてくてくと皆の後をついていく。

「○○さんの桜は幹が太い、□□さんの桜は色が濃い・・・」

それぞれの桜事情を思いながら、これから季節を経てどんな風に変わっていくのかなあと

思いをめぐらす代表の花見が脳内でまだ続いている。




桜を歌、花見を歌会に置き換えるとわかりやすいかも。




この歌会に出す2首だけが毎月書く歌という人が殆どだ。

歌会とはいえ皆が前傾姿勢な訳ではない、その人にとって日常をほんの少し彩るもの。

ささやかな息抜きとしての場所。それぞれにとっての歌会の在り方楽しみ方が

「歌」そのものの在り方だと思う。

花見の場所取りとはそういうことなのである。

代表というのはその場所を確保する人であればいいのではないだろうか。

いい歌を書き続けることとは別に。

��「まあ、いい歌さえ書き続けて行けばいいよ」と代表になった当初戸水氏に励まされた?ため

私の中でこれが唯一の代表の意義になっている。いい歌・・・・かあ。)

2010年12月18日土曜日

No title

歌集らしきものを作りました。

左のブログパーツから覗きにどうぞ。


体裁もデザインもかなり簡素(テキトーとも言う)になってしまった。

これくらい気負いがない方が気持ち的に楽かも。

選歌でひーこら言うくらいだったので。

��部作くらいやれば歌集1冊分にはなるやもしれません。


ふー、疲れた。楽しいけど。

次は来年だなあ。

明日は今年最後の

五行歌会でございます。

今年はいろいろあったようでなかったような・・・・。

先立つものはないくせに煩悩は人並みにあるのだったりする。

年末は久々に行きつけの(変な表現か)神社へお参り行こうかしら。

身近な人、遠方の友たちの息災を祈るくらいだけど。


叶えたいことは多々あれど、もう諦めが肝心だよなあとも。




なんも、それでも進んでいくしか拓けないのさ。

2010年12月15日水曜日

No title

電子書籍作成サービス「パブー」
http://p.booklog.jp/

こちらの無料作成を使ってささやかな五行歌集を計画中。

多分この先実際出版する可能性はないに等しいので(宝くじでも当たれば別だけども)

こういう形でも残せたらいいのではないかなと思った次第。

縦書きに対応していないので、やや手間がかかる分載せる歌もそんなに多くない。

でもそれでよかったかも。なぜならば・・・


過去とはいえディープな想いの染み込んだ歌共と
��結晶なんてそんな素敵な表現は言わない。)
改めて向き合いつつ(個人的には2007年がしみじみ濃ゆい)
選んでは捨て、切ってはまた戻し、載せるのが限られる分
密度のある歌ばかり残ってしまったものだから胸焼けも甚だしい始末。


「恥」という意味をしみじみ理解できるようになるのが、大人になった証拠と

何かに書いていたなあ。

昔の歌見て「くはあーっ」と思えたってことはまだ伸びしろがあるという解釈でいいんだろうか?

いいんだよな、うんうん。

2010年12月14日火曜日

問わずに包む

その人を好きかということと、その人に何もかも委ねられるかということ。

その落差や隔てがない人は幸いだと思う。

もっと何でも言ってくれればいいのに、と言われるのが辛いときがある。

聞き流して欲しいのと受け止めて欲しいのと微妙なせめぎ合い。

大事な人に対するほどその葛藤は激しくて。


これから出会うであろう、君よ。

手が掛かるだろうが時間をください。

ひとつひとつ差し出す時間を。

2010年12月12日日曜日

自戒的なあれこれ

感受性は老いる。

お肌も精神も早いうちからの危機感が大事だとつくづく思う。


五行歌は様々な世代の方に書かれてはいるが、高齢の方、熟年主婦層がやはり多い。

��0~70代から始められる方もいて、しかもそれがとても瑞々しい歌を書かれていたりもする。

長年使っていなかった部分の感受性と自発性をのびのびと発揮されている。


何年創作活動を続けていたとか書いていたとかの自身への拘り

乾上った感受性の隠れ蓑にしてないだろうか。今でこそこうやって自戒できるけど

これが50~60代になったときを考えると自信がちょっとないので、あえてここに記するのだ。

「詩のボクシング」というアグレッシブな詩の朗読イベントがあるが~~~公式HPはこちら

己と対峙の部分はさぞかしシャドーボクシングの部類になるだろうか。

実際ああいう形での試合形式のあり方云々は別として、精神を老いさせる事がない表現スタイルだと思う。



二次元だけではない発する空間。

肉体を持つ呼吸。



あれは優劣以前に「どれだけあんた自身と向き合い格闘できるんだい」と自分の全存在を問われるのだね。

見えない部分の基礎体力や筋肉、タフでなければ己にも試合にも勝てない格闘なのである。



某計画、あと2首で30行くです。まずは30でも・・・いいですかw(誰に聞いてるの)

2010年12月7日火曜日

Letter

嘘をつけないからこそ、歌える幻もあると思う。

誰かを何かを想える気持ちが貴方にもあるなら

好きなものを素直に好きと思えるならきっと、歌えない歌は、ないわ。

貴方と同じでそう簡単にはのめり込まない私だけど

少しだけ、簡単には手放せないものがあるの。

少しだけ、だから惜しげなく注げられる。

少しだけ、だからなお大事にする。




この曲を聴くとき、その少しだけの人や物を思い浮かべる。

それを愛とか恋とか決めるのは第3者で、でもそれはそれでもいいと思う。

根っこは同じ。

2010年12月6日月曜日

散文とその人となり

知人友人著名人などのmixi日記やブログ記事を見るたびに

普段見ているその人の印象と案外ギャップがあったりする様が興味深い。

私自身を知っている人からすれば、私もその例に入ると思う。

散文や歌だと自分自身「何を伝えたいか」整理がつくので急かされる事もなく訥々とキーボードで打ち込める。

とりとめもなくおしゃべりは嫌いじゃないけど逆に「理路整然と説明しなさい」と言われると焦る。

ある意味歌会でコメントを言うのが苦痛なタイプだ。


しゃきんと真摯な文を書く人が、実際会って話すとふんわりした感じだったりその逆もあったり。

一見破天荒だけど、散文だと至極ノーマルな繊細さを見せていたり。

孤高そうな人が絵文字や顔文字駆使していたりw

もちろんそういうブレのない人もいたり。

どれもその人の「コミュニケーションに対する意識」みたいなものがなせるものなのだろうけど。


ただ、無味無臭な文章使いというか(上手い下手ではなく)意識が空白かな?というか

役者さんや歌い手さんは割と自分の催し物に関するPR文とは別にそういう感じが多い気がする。

それはきっと彼らの伝達手段としての意識はそっちではないというだけなのだよね。

願い



このまま、この穏やかな気持ちのまま

ただひたすら想う幸せの中で暮らせているうちに

終われてしまえばいいのにと思う。

見返りも望むことも忘れて。

2010年12月4日土曜日

No title

自分の頑なさにもがいているというのは不器用、と片付けるのは違うと思う。

己との対話、向き合う方向がいつも同じというのは意識的なものだ。


変わること、抑えること、受け入れる事イコール自分の世界を侵食し脅かし荒らす事と

決してそうは思わなくても心の隅でかすかに捉えてしまうきらいはないだろうか。


個性とかスタイルとかよく聞くけど、あってないようなものであり、

本人以外の者が言葉で語れる範疇で「この人はこう」とラベルを貼っていくようなものだ。

外へ外へと発するパフォーマーや表現者はそういうものを越えているような気がする。

伝えたい「そのもの」だけをクリアーに確実に届けるような。そこには演者の我や迷いなどはない。

No title

ドラッグストアの香水のコーナー。

あれこれテスターをくんくんするのが結構好きだったりする。

嗅ぐたびに、どの香りもそれぞれの物語があるんだなあと思う。

ちなみに好きな香水はCALVIN KLEINのエタニティ。レディスもメンズも。

言葉で綴る物語、今月の本誌感想でございます。



稲本さんのおかえりなさいの歌

これ、出迎えながらも出迎えられているのだよねえ。

時を経ても帰れる場所があるのはつくづく良い。



名塚さんの雨の歌

悲しみに触れたことを、触れたとは言わない。

これだけではなくどの今までの作品にしても

日々や想いをまろやかに「目配せ」している。


井椎さんの毎日玉砕の歌

たぶんこれはこっぱみじんにはなるけれども

また作り直しているのだろうね、しかも壊れる前より

一個部品が増えてたりしてるのだろうね。

その一個分が毎日積み重ねられて無尽蔵の豊かさとなっているのだろうね。

まんま感想で失敬、しーさん。

2010年12月2日木曜日

いつだって震えながら

実際のところ、自分自身へのあり方に対するのと同じくらいに

自作の歌については思うことはある。

その「思う部分」を修正したり加筆したり、日々を描いている。

納得できない日はすべてをほっぽり投げたり、やり過ごしたり。


不安に震えるのは同じなのに、前に進んでいくだけで勇気があると勘違いされる。

未だに満たされない心が、延々と帰路を行く。

それはいつかの、交通費がなくて歩いて通勤してた頃のような途方のなさと

なんら変わらない。

己の弱さだけを旅路の連れとして、今も歩いている。

背すじを曲げて、一歩一歩。

2010年12月1日水曜日

朝焼けに照らされる明日


アジカンの中でも好きな曲。PVもあるのだけどこのスライドショーがまた秀逸なのではっつけてみる。



そしてサンボマスター。

ちょうど2005~2006年あたりにかけてJ-COMの音楽チャンネルとお友達状態だった。
お出かけして散在する余裕と時間もなく仕事以外は結構引きこもりだったような気がする。
��006年の夏くらいにどうにかこの生活自体を立て直したいと思い、特定調停を受けると決めた時期でもあった。

今日というその1日だけが私の人生で「明日」なんて常に無いものだった。

ただ、今日だけをやり過ごせる事が唯一の望み。

口だけの慰めより通りすがりのメロディーが希望をくれていた。

��年前の今時期はたしか裁判所とのやり取りの最中で、面談に行く前に寄ったカフェの

ミルクティーのカップの柄がえらく持ちづらかったのを何故か覚えている。

雪深かった時の思い出話。