2011年12月14日水曜日

脱ぐという必然

おのれを脱ぐ、という意識で書くことの背景はどんなものなのだろうと思う。

赤裸々な言葉を使うことだろうか、胸に潜む願望や欲をさらけ出すことだろうか。

それとも日常からの解放か。

言葉や展開そのものよりも、作者自身が、脱ぐ、ということについてどういう思いであるのか、

どんな変転を経てそう至ったのだろうか。

脱ぐ=官能と結びつけがちであるけれど、

自分でとっとと脱ぐか読み手に最後の一枚を剥ぎ取ってもらうかの違いは大きい。

この下着は貴方が脱がせてね、みたいな(私が書くとなんか途端に台無しw)

という意味では全てを脱ぎきってない前提で官能歌は成り立つ部分はあると思う。



やむにやまれぬものがあるほど言葉的や状況的にはリアルになる(というかノンフィクションに近くなる)



今までとは違った感覚をを目下感度磨き中ではあるけれど、


ここでさらけ出さなければ息が吸えない、とか


今吐き出さなければ死ぬしかない、とか


ああいう必然の呼吸がまたいつか、どーんと五行になって来るのだろうか。




生きている実感として絶頂の如く迫ってくるような。

2011年12月4日日曜日

God's in His heaven.All's right with the world.

表題は赤毛のアンが物語のラストで祈りの言葉のようにつぶやいた、ブラウニングの詩の一節。

神、空に知らしめす。すべて世はこともなし。


Flash mobというイベントであるけれど、日常に潜む喜びが

いきなりぐわーっと沸き立つような。

素敵なサプライズです。

世に住まうあらゆる人へ幸いを。そんな気持ちにさせてくれる。





2011年11月20日日曜日

生きよ

今月の歌会で出した歌。

若い頃の自分に言いたかったことでもある。

言ったからといって何かが変わるわけでもきっとなかったろうけれども。



mayowaba.jpg

2011年11月16日水曜日

情というもの

久々の本誌感想・・な気がする。

��1月号は全国歌会特集。

利き酒コーナーに尽きる。なんかもう、それだけで何で行かんかったんだろうと後悔。

以上です(酷)

たしか10月号もまともにやらなかったので、印象に残っていてつい最近まで考えていた歌を一つ。

波那さんのお姑さんの歌。

実はわたしも苦手と言うかそういうふうに接されるとどうしていいかわからなくなるタイプ。

それもあるけれど、そう言い切れるという事は単純に「個」に対する尊重からか

義理人情そのものに深く突っ込んで痛いしっぺ返しをくらった事があるか

そういうのも含めて長い年月を生きて得た知恵なのかもしれない。

世の中単純じゃないわよーという含蓄を実に含んでいる気がします。

ということで逆に作者がこのことに対して感じた距離感はどこから生まれたのかが気になった。

もしかしたら作者はお姑さんにとってはいくつになっても「可愛いお嫁ちゃん」なのだろうなあ。

あったかいだけが人情じゃないのよと、遠回しに気を遣いすぎては疲れるわよと言っているのかもしれない。

素敵でカッコイイお姑さんだなと思います。

2011年11月4日金曜日

住み分け拡大中

いやーとうとうフェイスブックまで始めてしまったよ。

他のSNSとの連携はしやすい方だと思うけど、基本住み分けツールだからねえ(´・ω・`)

ツイッター・・・・・日々リアルタイムなつぶやき
G+・・・・・サバト兼隠密活動w
FB・・・・・イラストやアート、単純に趣味全般
ブログ・・・・基本五行歌関係そして音楽など。

今のところこんな感じか。

そして今しがた放置気味だったMyspaceをツイッターとFBで同期させてみた。

ツイッターからの更新→Myspaceへ同期(逆はない)

FBとMyspaceは→相互で同期

ツイッターとFBは→それぞれ独立

閑散としてたMyspaceをすこし賑やかに、ツイッターはただでさえ落ち着かないので

これはこれで独立、そしてFBがいちばん活発になる感じにした。

そしてここは相変わらずのこもり場でいいのだと思うけど、FBのノート機能などみると

反映できそうだなあとも思ったのでそちらからもそもそと更新(でもすぐに反映は

されないっぽいよ。追々これはやっていきます。)しようかと思っています。

なるべくそれぞれへいちいちログインして・・・というのを減らすための工夫は

当分続きそうです。

2011年10月28日金曜日

星屑探し

近況報告・・・・・G+ばかりに最近入り浸って申し訳ないでっす。

��右バナーのHOPE-JAPANという有志の除染プロジェクトにささやかながら参加しておるのです。

最初は応援サイドだったのですが・・・昔とった杵柄のなんとやらで・・・w)

五行歌とはベクトル真逆なイラストを勘を取り戻すべく一日一画で描いております。


で、まったく話が変わってまたMusic動画。歌友情報で教えてもらったこちらのグループ。



女の子の歌声がいいですねぇ(*´ω`*)そしてこれを見た後右のギターの彼に

嵌りかける自分に気づけるはず。カバーだけじゃもったいないなあと思うのです。

2011年10月24日月曜日

辿れども拾えども

ある事がきっかけで十数年ぶりにイラストを描くことになった。

目下そのリハビリ中。

戻れる範囲のクォリティまで上げるしかないなあと己を慰めつつ

もくもくと。


長らく動かしてなかった歯車を回すようだ。

思うように手が動かない以上に、やはり一度捨てた時間を辿るということは

きつくもあるし、それを黙って耐えてることで歌も相乗効果で浮かんで来たり。

あせらぬよう、あせらぬよう 唱えながら



生き直しているかのような軋みよ

2011年10月16日日曜日

右脳人間なりの矜持

ツイッターでフォローしているマーラーの(なんか縁付いてる?)bot

時折琴線に響くことを呟いてくれている。


音楽家が秘めているものを言葉に表すことは出来ません。
普通の人と違っているのは確かですが、
それが何なのかは答えられないのです。
音楽家は流離人のように彷徨っています。
どの道を辿ってよいのか分からなくとも、常に光を追っているのです。
それが太陽のように輝く天体であれ、人を惑わす鬼火であれ



当人にとってはどうあれその光は真実なのである

が、しかし

幻想や理想や妄想の中だけの世界に過ぎない。



音楽家にしろ演劇や歌や詩歌や文芸にしろ、非生産的知的職種は

ある種平和で豊かな社会の中で成り立っている。


その社会が形のない不安に脅かされている時の

��はっきりと意識してなくても)足元が揺らぎつつあるという自覚が

何だか極端な行動に走らせてしまう気がする。


考えたこともないのにいきなり自然回帰や美しい地球や人類の平和を叫ぶよりは

揺らぐ足元を見つめたり

その揺らぎの正体を探すべく執拗に内へと探究したり

「わたしを本当の意味で脅かしているものはどこにあるのだろう」

「かたちある何かを動かす術を持たない俺には何が出来るのだろう」

そんな逡巡こそが、「形なきものを生み出し、形なき心を動かせる者」として

ある意味誠実な姿勢なのではないか。



時が経ち物理的に体裁は整ってもどこか空洞な、それは街であったり人の心であったりするだろうけれど

そこに吹き込める風であり、潤す水であり、点す灯である

農家はお米を作り大工は家を建てるけれど、自分たちが捧げ与えられるものはそういう類のものだ。

「そんな俺であり私であるしかない。」といい加減肚を決めたっていいのではないか。

「舞踏に言葉が響くとき〜にんぎょひめ」ゆる感想

前評判を聞いていて、再演の際は見に行きたいなあと思っていたのが

今回実現しましたよ(・∀・)今日はその感想です。

ヨミガタリスト氏と舞踊家の竹内実花さんのコラボレーション「にんぎょひめ」

アンデルセンの童話ですがそれの読み語りと舞踊が醸し出す空間の妙を味わえた一時でした。

ヨミガタリストさんのブログでの紹介記事
http://footmats.kitaguni.tv/e1839888.html

主催告知ページ
http://homepage2.nifty.com/opere/2011mikamats.html



普段演劇鑑賞系は、以前のブログ記事にも書いたように

観客席と舞台への意識が行ったり来たりしてしまう分疲れてしまいがちなんですが

今回はそれがなかったです(歌会&仕事後の疲れは別として)。

演出効果のうっすらとドライアイス(でいいのだろうか?ホール内がライトの下煙っている感じがしたので)が

舞台と観客席の境界をぼやかしてくれたお蔭かもしれません。

開演、ホールを闇が包んだ瞬間、ライトに照らされ浮かび上がるヨミガタリスト松本さんの姿。

物語が進むうち次第にそこは海の底へと変わっていき(照明が終始素晴らしかったですねえ)

その後ろから、うごめく海藻のように演者の真っ白い手が、物語終章の暗示のように浮かび上がります。


ゆらりと現れた人魚姫。


人魚は「魂」を持たないという設定からか、その存在からは血の通ったものは感じさせず

異世界なるものの具現化されたイメージとしてそこに在ったような気がします。

そしてそれは、王子様への恋心と共にだんだんと「人」として逸脱してゆくのですが。

個人的には人魚姫が「人」となった痛みや葛藤、そして恋破れて失ったものへの慟哭や苦悩する場面から

ぐぐっと引き込まれていきました。ここから王子への想いに抗えず海へと飛び込むまで

正に竹内さんの技量の見せ所と感じました。もちろん読み語りの底上げもあってこそ。



アンデルセンの原作は詳しくは読んでいなかったのですが、最後目を覚ました王子が結婚した王女と共に

人魚姫を案じて探すという場面があるのを知って、そこになんとも救われた感がありました。

あのままで終わったらそれこそ善意に満ちた人でなしですからねえ・・・・w


望んでいるものを得たい、愛されたいというのは現実に生きていれば誰しもが望んでいる事でもありますよね。

苦難を経て悲しみも昇華出来た時、そこで人間としての証、「涙」とともに

「気づき」としては痛く辛くはかない失恋という形ではあったけれど

一個の魂として人魚姫は生まれ変われた、自分的にはとても希望に満ちたラストでした。

大仰な感動ではなく、結果誰もが許され救われたことに対しての安堵感が大きいかな?


【ちょこっと思ったりしたこと】

素人考えでしょうが、あのホール規模はなんだかもったいない気がしました。

「もう少し大きめのハコで(そんな大きくなくてもいい)」

「もう少し広報宣伝にお金と手間と根回しをかけ(多分ポスターやちらしなどのデザインや

見せ方ひとつでまったく集客効果変わると思います。ちょろっと広告系に足を踏み入れていた者として

そこはもったいない(二度目)かなと)」

「親切な協賛スポンサー様にひとつでもいいので協力してもらう(頑張って探す)」

やまびこ座のアットホームな雰囲気も、今日初めて伺いましたがいいなと思いましたけれども(´ω`)

サロン的感覚で共有するに留めるにはもったいないほど(三度目w)

舞台のクォリティは高いと感じました。

で、「にんぎょひめ」だけではなくそれをとっかかりにした様々なものをこのお二人でもっと見てみたいです。

まだ明日の14時の部を残してますが、今から再びの再演を望んでも気が早いとは思ってない人、多いはずですよ。


そして床材と靴の相性の問題でしょうが、音楽がない分ヨミガタリスト氏の靴音が

妙に気になってしまいました(´・ω・`)重箱の隅みたいでかたじけない。

でももう少し広いとこだと気にならない範囲な気もするのですよぉ。

それくらい舞台鑑賞に没頭できたという事なので再考プリーズ


まずは関係者各位様今日はお疲れ様でした。とても楽しませていただいた舞台でした(・∀・)

明日の千秋楽、身体に気を付け頑張ってくださいませ。

つたない感想ですがこれにて。

2011年9月28日水曜日

思考(嗜好)の住み分け

前の更新からだいぶ時間が経ってしまった・・・(´・ω・`)

思考整理を兼ねてこのブログをやっていたりするのだけど、

実は案外私自身は物凄い興味の幅が広かったりする。

ただ、ここは五行歌を中心の物思い整理場みたいな扱いなので(それでも動画かなり多いけどさ)

そういうスタンスで通している。

と言うか、自分の中でそれぞれの興味ごとジャンル分け住み分け

整理してないと落ち着かない。実際の本棚の整理は出来ないのにw


もっぱらこれとツイッターを使っているけれど、今回新しく試してみたのがG+

ツイッターのフォロー別個室化みたいな解釈で使っています。

動画や写真も貼りやすい。ツイッターやmixiは宣伝的であるけれども

こちらはディスカッション向きかなぁ。

イベント打ち合わせとかそういうのに使うのも便利。

そこまで高度じゃなくても井戸端会議でもいい訳であるし。

私も始めたばかりなので試行錯誤中ですが、有志とあれこれ試しております。

Googleアカウントを持っていれば誰でも参加できるようになっているのでお試しください。


という事なので


長らくほとんどアプリくらいしか使っていなかったmixiはさくっと退会しております。



こちらのブログを覗いている元マイミクさん、元気でやっておりますのでご安心をw

2011年9月17日土曜日

すべては救えない

ふと、思い起こして13年前のある事をネットで探して

久々に見る名前をじっくり見ていた。

知っている方は知っていると思うが、所謂かなりの事件がその頃あった。

その当事者は同級生だった。

どこまでも優等生に育てられた当人は、学生の頃からその傾向はあったけれども

世の中に迎合出来ずとも当人の信じる正しき事はどこまでも貫く質だった。

結果としては自分の「生きている」「役立っている」価値を

他者の心と寄り添い救うところに見出したが、的外れの理想の都合良さに気が付けず

ようやく気づいたのは、救おうとしていた他者を救えなかった時だったと思う。


彼は絶望した。きっと主に自分自身に。


そうして自身の生を放棄した。



救えなかった事例を思えば同情の余地はないけれど

もう少し、もう少しだけの「妥協」と「融通」を社会に出てから

学ぶことは出来なかったのか。



そして今更ではあるけれど



学生の頃、彼の気持ちを素直に受け入れていれば



歯車は違う方向へ回れたのだろうかと



救える命もあったのではないかと







すべてを救う、という的外れの善意ほど純粋で傲慢で悲しいものはない。

私の繰言だって彼のそれと大して変わらない。



きっと同じことだ。



すべてを救う事は出来ない。



その真理の重さが、今の私の足をしっかりと地につけさせている。

2011年9月12日月曜日

突発的チャゲアス特集記事

( ´゚д゚`)エーごぎょうかの話とかじゃないのかよー、とか思ってる方。

古代の「ウタ」の始まりは神の詔、そこから派生して詩歌、舞踊、歌謡、演劇のルーツが始まったので

詩歌以外の話題を語るのは何ら自分の中では矛盾はないのでございます。

生まれて今までの生活の中で、どんな音楽や文学、メディアに影響を受けてきたかを

それこそ他世代と比較しつつ振り返ってみるというのは重要だと思う訳で。


Chage&Aska

実際はもう少し私よりは上の世代の人がリアルタイムで聴いていたかもですが、「Say Yes」で

大ブレイクしたのでそっちのイメージが今の人にはあるでしょう。

でもこの方々の同時代の他のアーティストも本当に音楽スキルが高いなあと思います。




こういうスケールの大きい歌って歌える人、今はいないんじゃないか。



何も考えずともファイトが湧く。



ナイーブで強靭な詞を書くASKA でもそれ以上に未来の予見のようなこういう感覚も持ち合わせていたと

いうところが驚き。




昔の仕事先の上司が激歌上手で、カラオケで歌うこの曲が絶品でした。




ミスチルとのコラボ。健在です。桜井さんの子供のような表情もいい。




個人的推しの曲。

2011年9月5日月曜日

実感の表し方

ゆるっと本誌感想。


特集


自分のはとりあえず置いておいて・・・(やはり活字にすると・・・なんだかなあ、反省点は多々。)



◆紫桜さんは旦那さんのアメリカ出張へ伴って最近帰国してきたのですが

細かい経緯は知っているとはいえ、その時の精神状態や心の移り変わりは

五行歌だと非常にわかりやすい。ある部分の「太さ」は私にはないのでそこが羨ましい。


◆野田さんの、虚と実を、世の理を、日々のカオスに紛れた本質を、関所で吟味する仕分け人の目線。

世間に付随するものには厳しいが、それから逃れたもの(自然とか)には優しくもある。

その落差に、読む人は生きていく際生まれる矛盾や業みたいなものを重ねて共感するのだと思う。



あと、福島さんの今回の作品。

たとえば虚構美を良しとする人がいきなり社会的メッセージを前面に出して来たら

普段その世界を味わっている方からすれば面食らうが、「なぜ?」という疑問が湧いた時に

「こういう表現に今回至った経緯はなんだろう」と思いを馳せるのが賢明かと考えた。


こういう直接的な事をあえて本誌に載せたという事は、最近の世情に対する批判であるのと同時に

あまりにも原発がらみな歌が多い事(致し方ない事ではあるけれども)に対しての

痛烈な皮肉でもあるのではないかと感じる。

彼口調で言うところの「ワイドショーの受け売りでしょ」

そういう意識から脱却したところに本来歌はあるべきであって

そこでようやく歌対歌の対等なものになるのだと。

それこそ被災者もそうでない人も関係なく。

ささやかに発刊

sen表紙

とりあえず完成しました~。

とにかく超個人的なものなので好き嫌いは出るかもですが

http://p.booklog.jp/book/33148

こちらから閲覧、ダウンロードどうぞ。

2011年8月29日月曜日

また電子書籍のパブーを使ってあれこれと作っています。

なんだかこのブログの延長的な散文と

本誌に出していないとか歌会のみ出したとかの作品を掲載予定。

不定期にやります。10ページもないです。

どこまでも自分だけしか面白くないであろう個人冊子です(そもそも個人だからいいのだろうか)。

表紙だけはとりあえず出来てます(・∀・)



sen表紙



ほんと表紙とまえがきしかやってないw

��月にはできればいいですねえ(他人事)という進み具合です。

2011年8月22日月曜日

突発的岡村ちゃん特集記事

私が十代だったときBOOWYとかレベッカとか尾崎豊の隙間で独特の輝きを放っていた。

物凄いファンでなくとも「岡村ちゃん」という呼称で呼んでしまうし、キワモノっぽい印象であったけど

今聴いても古臭さは感じない音。時代がようやく追い付いてきたのか。

復帰アルバムももうじき出るそう。それより復帰して続くのかがすごく心配ですが(;´Д`)

アルバムジャケット見る限りは何か毒素が抜けきったような感じであるし(痩せてよかった・・・)

少なくとも今の時代は、昔よりは彼にとっては生きやすい世の中であるかもしれない。


この曲が一番好きかなー。


時代の虚無感をひしひしと感じる。




2011年8月21日日曜日

歌会でしたよっと。

ざーっと箇条書きですがあれこれ記しておきます。論理立てが眠気でできないので・・・

��土曜は仕事午前中だけあるので大抵歌会の日は眠いですw)




★T水氏とお昼ご飯を歌会前に頂く。とにかくF島氏大好きなので目下お休み中の氏の事を

熱く語っていました。


★結局はこういう詩形を知ってもらうには

「本誌読む人だけではない広い範囲の目に触れさせ、自分も書いてみたい!と

思わせるような歌の力しかないんじゃないか」という結論に。




★携帯メールの挑戦が続いているT水氏、どうやらPCでこちらのブログをご覧になったらしい。

そして右帯の歌集4部作をほめてくださった(∩´∀`)∩ワーイ

「あの作品載せてるのがツイッター?」いえいえ電子書籍なんでございます。




★そんなT水氏、全国大会に行ってくるそうです。

F島氏も行くそうなので行かれる方どうぞよろしくお願いいたします。




★出席は6人。点数表制作&今月の司会係のメンバーが急遽お休みに。

そして急遽わたくしが司会にw




★さわやかな夏らしい青空の歌が多かったです。たぶんこの書き方は北海道の気候ならでは。

どこまでもからっとした表現になります。




★歌会後は場所を変えて甘味処へ。



★T水氏の小5のお孫さんが旭川へ遊びに来た話。

孫の携帯をわざと鳴らして悪戯するお祖父さんに対し

遊びに来る際に「いじめ倒してやる!(そちらの家の)手伝いはちょっとはするけど」とメールで返す孫。

楽しいww



★ゲーム類を持たせなかったそうで旭川でも一緒に遊ぶ子もいなくて寂しかったろうけど

「寂しがらせてもいいよね、そういう事も覚えないと。」と。

それでもパソコンや携帯を駆使して遊んでいたそうで驚嘆したそうです。





★今日のT水氏名言「僕は(ずっと学校の中しか知らないから)社会の事とかわかってないから、経営の事とか

そういう話を聞くとすごいなーって思うんだよねえ」

こういうふうに自身を振り返られる教師って今の時代どれだけいるのだろうとふと思った。

そして同じ70代の同世代の男性の中でも。

なんとなく先月休みだったせいもあって大いに話をしてました。ある意味T水氏祭りの一日でした。

2011年8月17日水曜日

ちょうど本誌の締め切り間際に急遽特集を組むので16首プリーズ!という知らせが来てしまい

久々の大慌てでゼロから歌を作っていました。

ちょうどPMFが終わってしばらくの事だったので(安易に)題材に使ったはいいが

ライブの予定も立て込んでいて、jazzを聴きつつクラシックの感動を歌にするのかできるのかだいじょーぶか?

と、焦りつつ組み立てておりました。字を間違えて訂正メールを何度も送ったりとか(´д`)

てんやわんやですがなんとか纏めた・・・という感じです。

記録っぽくなったは否めないけど、でも、改めて思い起こせばあの時間は確かに自分の何かを

刺激してくれたような気がします。



出し惜しむな、悔いは残すな、と。



喝采

そのうちの一首がこれ。

PMFだけではない他のライブでの実感も含まれているけれど。

人が何かに誰かに拍手を送る時、それは敬意や称賛であったり感銘の気持であったりするけれど

ライブの音は生もので、その時のグルーヴ感と同じものが次回味わえると思ったらそれは違う。



だからこそ一期一会の瞬間に出会えたことに感謝する。

きっとここで立ち会えたのも必然で、その巡り合わせに。



上手い具合にここのところのライブ出歩き鑑賞の総括みたいな歌になった。


また良き音と感動の瞬間に巡り会えればと思う。

2011年8月10日水曜日

kitaraにアキラさんがやって来た~宮川彬良コンサートゆる感想

聴きたい時は突発的に聴きに行くライヴ三昧のラスト、アキラさんの大発見コンサートに行ってきましたよ。


音楽の可能性や楽しさを子供たちに感じてもらおう・・・がコンセプトですので

キタラホールのロビーにはかなりな数の親子連れでいっぱいでした。

何せちびっこ達ですからフリーダム。

ぐずってみたり叫んでみたり靴下脱いで寛いでみたり

「アキラさんどこー?(・∀・)」とお母さんに聞いてみたり…賑やかでしたw

11-08-07_002.jpg

そんなこんなで開場。わたしは2階席のやや右端寄りでしたが

ホールの構造上、360度見渡せるようになっているのもあり実に見晴らしがいいです!

さて開演まで30分前に札響合唱団の方が入場。

コンサート最後の曲に手拍子で観客が参加するパートがあるということで

なんとそれの前説と練習です。



そして開演。

まずは札幌交響楽団の方々が入場して拍手。

チューニングが終わり、最初の曲「大発見マーチ」が始まりました。

そして…下手から勇ましい足どりで宮川彬良さん入場です!!まさにテレビで見たあのアキラさんですw

会場大拍手の渦です。

そのまま指揮台に上がり演奏を続けます。

曲が終わり恭しくw挨拶をするアキラさん。

「拍手は私たちの大好物なんです~」ということで

曲の終わった瞬間を再現して(最後のジャジャーン♪みたいなやつ)

拍手の練習です。またやるんですかw


2曲目はブルース・リーの映画、燃えよドラゴンのテーマ。

「あの「アチョー」の台詞をどの楽器が担当してるのかよく聴いてみてくださいねぇ~」

聴く分にはそのままアキラさんがマイクで「アチョー!!」で充分な気もしますがw

ともあれ目と耳をこらして聴いてみる。




♪♪~(お馴染みのフレーズ…)(´ω`)


~チャチャーチャーン♪(おぉ、いよいよだな)(・ω・´)


『アチョー!』(アキラさんの口パクパフォーマンス付きw)~♪
(えっチェロだ!!)Σ(゜∀゜)


そっかーバイオリンだと線が細いからチェロなのかなーと思いきや

アキラさんヌンチャクを取り出し(いつの間に持って来てたんだw)

体にパコパコぶつけつつヌンチャク演武を披露w

ラストも見事な決めポーズ!笑いと拍手喝采です。

アチョー担当のチェロパートの団員さんたちを紹介後

これを弦楽器全員でやってみたらどうなるかを再現してくれました。

何やら地響きのようなアチョー!!で「現代音楽のようになりました」とアキラさんが言った瞬間…



ウワァァ-----。゚(゚´Д`゚)゚。-----ン!!!!
大ホールに響き渡るちびっこの泣き叫ぶ声が。

アキラさん超動揺してますw(゚Д゚≡゚Д゚)ドコドコ?

ちょうど私から見てステージ挟んで向こうの座席、

号泣するわが子を抱いて出口へ避難するお父さんらしき姿が。

その後を追いかけていくお母さんらしき人。

後ろを振り向き確認したアキラさん!Σ(゚д゚lll)

「申し訳ございません!!」その場で土下座w

会場大爆笑w


音にびっくりしちゃったのかもですねぇ。

ちなみにホール外にはモニター設置してるのでこのような不意の出来事でも

お子さんをあやしながら演奏会も楽しめるようになっていたようです。


その後気を取り直して?、ベートーベンの「悲愴」を。

本来ピアノ曲ですがオーケストラアレンジで演奏してくださいました。



次は「ゆうがたクインテット」から3曲を先ほどの合唱団の方が登場して演奏、合唱。

「ただいま考え中」「目は怒ってる」そしてゆうがたクインテットの「テーマ」

そういえば隣の席のお母さんが娘さんに「今日はシャープさんとかは来ないんだって、お留守番してるんだって」

と説明していたのが微笑ましかった(*´ω`*)



続いてはアキラさんオリジナル曲のメドレー。

こうして演奏するのは初めての新曲もあって(ちなみにコンサート終了後ロビーでCDなど販売されてました)

どの曲も丁寧(構成とか音楽に対する姿勢とか、笑いが入ってもとても丁寧な印象を受けます。)で

優しいものばかりでしたが、「まちがみんなをすきなんだ」という曲が特に好きです。

「暮らし」や「日常」というもののかけがえのなさを描いていて、子供向けというより

案外じっくり聴き入っていたのは親御さんの方だったかもしれません。

童謡って結構な大人になってからふと思い出して口ずさんだり、ちょっとした癒しになったりしますが

その先を見越して作った部分もあるのかなと思ったり。



そして想定内の最後の曲(もちろんアンコールはちゃんとあるという設定。あらかじめ説明というのは

綾戸さんといい流行っているんでしょうか?w)

ディズニー・シンフォニック・パレード!ディズニー映画のいわば行進曲部分を主に繋いで

編曲、演奏してくださいました。もちろんちびっこ達もノリノリヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノ



最後はアンコール曲(曲名忘れました・・・よろこびのリズムとかなんとかだったような)、

最初の前説で練習した手拍子(手だけじゃなく足とかお腹とかも使います)で

観客も参加して楽しくほっこり密度の濃い1時間を過ごせました。



来月からはがっつり歯医者通いの予定なので年末までかかる予感・・・CD買うのもLIVE関係もしばしお預けです。

無理のない程度なら行きたいですが、当分はYOUTUBEとお友達が続くでしょうねえ。

2011年8月8日月曜日

真夏日jazz日~サッポロシティジャズ2011ゆる感想~

さて、ややあって遅くなった8/6のサッポロシティジャズのゆるい感想をば・・。

前回のPMFと全く同じステージだったのですが、今回はちょっとハードでした。

この日の札幌市内の気温は30℃(前回は26℃)

そして風がかなり微弱でやや湿気もあり(前回はビュービュー吹いて快適でした)

日傘一本だけではかなり辛い環境でした。(´Д`;)

途中ブレイクダウンする余裕があるjazzだからこそなんとか最後までいれたかもしれません。

無料で配ってくれたうちわの波が観客席を埋め尽くしていましたねえ。


PMF以上にスタッフさんが見回り巡回をしていたので、実況ツイートも少な目

��と言っても暑くてそんな余裕がなかったのが本当ですw)


まず、トップバッターは青木カレンさん。

ご本人ブログ http://ameblo.jp/karen-aoki 公式サイト http://www.rambling.ne.jp/artist/karen/

North JAM Session RED STAGEにはステージの後ろに巨大スクリーンが配置されていて

遠くからでもアーティストの演奏や表情がはっきり見える仕様になっています。

南国風のマキシワンピ姿で登場。美人さはブログで確認してみてくださいませ。

のっけからクイーンの「We will rock you」をアシッドジャズ風味?で歌いだす(゚д゚)!

低い声と高い声の印象が結構違っていて、それが新鮮。



オリジナル曲のsugercake(この宣伝動画のラストに流れている曲)がフレンチポップスっぽい味付けで好きでした。

このアルバムからの曲がメインで、スティングやレディー・ガガのカバーもあり、

カバーでもアレンジと声のアクのなさがいい感じに働いていてナチュラルに乗れました(・∀・)

ジャズとかちょっと興味あるけどどんなのかなとか考えている若いお嬢さんがたとかでも

さらっと聴ける馴染みやすさはあるのではないでしょうか。


続いてはAGA-SHIO

津軽三味線奏者の上妻宏光さんとピアニストの塩谷哲さんのコラボユニットです。

わたくしこの時点で暑さに負ける寸前になっており・・・トークの内容もあやふやですが

お二人とも話し上手で演奏もそうですが、ボケとツッコミが入れ替わるトーク、かなり楽しいです。

��三味線は弾く曲によってチューニングも違ってくるとのことですが、どうやら塩谷さんが曲進行を間違えたらしく

いきなり違う曲を振られてすごい焦ったそうですw)




どんな媒体にしても和と洋のコラボレーションはどことなくアンバランスでそのずれがまた

魅力だったりしますが、このオリジナル曲はまさにしっくり融合している趣です。



そしてT-スクエア。



いきなり前方の椅子席の観客が総立ち(゚д゚)!あのF1のテーマソングから始まって一気にボルテージが上がります。

長年活動されていて熱烈なファンも結構いると聞きますが、すごい盛り上がりでした。

仕事帰りだし絶対このバンドの時は睡魔に勝てない気がする・・という予感は的中。

あの爆音をものともせずしばらく数十分ほど爆睡しましたw


日も落ちて、薄暗くなり肌寒くなってきた頃(寒暖の差が・・・)

トリは綾戸智絵さん。「北海道らしいメルヘンな感じで」(そういうイメージなのかw)ということで

17歳の時にアメリカで買ったというその当時で古着だから今だと超ヴィンテージになる

白地にに花模様のついたギャザーたっぷりのワンピースがすごく小柄な体に似合ってましたよ(・∀・)



一曲目はこの曲から始まりました。

これを皮切りにjazzのスタンダードを力強くずっしりと歌い、

そして歌紹介の際の感動&爆笑エピソードが必ずあって、ちょうど出ていた三日月を背に「It's Only A Paper Moon」

何気ないリクエストから始まって歌うほど好きになっていく「テネシー・ワルツ」

北海道で歌うのが似合うんじゃないかと歌ってくれた「カントリー・ロード」

ジョージア名物オクラのソテーに納豆を混ぜてみた話「Georgia on my Mind」

渡米して道を尋ね「where is …Route ロクジュウロク?」が最後まで通じなかった「Route 66 」

「プーさん(エルヴィス・プレスリーの事w)が枕元に立って歌ってほしいと」いう事で

歌ったIn the ghetto(元歌はこの下)などなど。


そして想定内の最後の曲(アンコール時間も加味しております、と本人談)「明日へ架ける橋」

震災を経た影響からか、希望を感じさせる3番の歌詞を、今、実感を込めて歌える気持ちになったと。


そしてアンコール曲は「Hallelujah」メサイアのコーラスじゃなくて私も今回初めて知った曲でした。

元歌はこれ。



声高ではないけれど確かなメッセージをしみじみ感じました。

人の根本に、意識しなくともされなくとも音楽の持つ力は確実に伝わるものなのかもしれません。

バス停へ行く道々で満足気に「よかったねー」と語り合う他の観客と共にそんなことを

暑さ疲れの頭でぼんやりと考えて帰路につきました。

2011年8月6日土曜日

明日の復習

明日はサッポロシティジャズ、PMFの時と同じ野外ステージに再び行ってきます。

また電池の様子見つつ中継ツイートはするかも・・・それより天気が・・・。

��0℃近くなるらしい、そして昼頃すこし雨も降るらしい。

そういえば前の時も小雨が降ってビールを死守しつつ聴いてたなあ。





パワフルさに圧倒されるというより個人的には

「おばあちゃん手作りのドテラを掛けてもらったようなあたたかさ」を感じる。

力強く発する者が打たれ強いかと言えばまた違う。

打たれ鍛えられてきた人間特有のこれは温もりと思う。

2011年8月1日月曜日

音の一期一会~2011PMF感想~

今日行ってきたPMFの感想を・・・。

クラシックは好きなだけで初心者ですので本当につたない感想ですw

そしてちょっと悲しい事が一つ。

プログラムを現地に忘れてきたようです(´;ω;`)ブワッ

アンサンブル演奏会のとき追加の曲目があったんですが書けずじまい、という体たらく。

リュッケルトの原詩と訳詞も載っていたのに・・・がっくりです。演奏中は撮影もダメということで

休憩合間にツイッターで実況はしましたが。


pmf3.jpg


さて、開場30分前に芸術の森へ到着。

すでに椅子まで出して行列している様子Σ(゚д゚lll)

あの野外ステージは本当に所謂山の中腹のような場所なので、こんもりと緑に囲まれていて

蝉の大合唱の隙間から、どこからかオーボエの(たぶん)おさらいが聴こえてきたり

コンサートホールでは味わえない雰囲気でした。

時間になり開場。入場入口でなんと、PMFオーケストラの金管の方が

オープニングのファンファーレを演奏してお出迎えですw(写真撮りたかったけど人波があったので・・)

ちなみにPMF関連の方はスタッフでも演奏者でも同じグリーンのTシャツを着ていたので

なんだかものすごい「皆で作ってますよー」な手作り感を感じましたねえ(*´ω`*)


開場して30分ほどした頃、東日本大震災の追悼の意を表すとして

PMFファカルティのデンソン・ポール・ポラード氏と有志(なのか担当した修了生なのか)での

金管5重奏での演奏が行われました。

フェイントで始まったのでMC内容も曲目も記憶が・・あやふやですが

��たぶん「亡き王女のためのパヴァーヌ」はかかったような気がする)

ただ最後がjazzのFly me to the moonだったのは覚えているです。


12:00~ PMF青少年のための音楽会
 尾高 忠明(指揮とお話)
 札幌交響楽団(ホストシティ・オーケストラ)
リスト:交響詩「レ・プレリュード」
 R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」 作品20 TrV156
 チャイコフスキー:幻想的序曲「ロメオとジュリエット」


いきなり胸打たれる熱演のリストでした。音でうるっときてジーンとしたのは久々ではないだろうか。

終わった後息を切らしつつトークに入った尾高さん(けっこう疲れるんですとご本人も言っていたw)

震災の関係でPMF自体も開催が危ぶまれていたというのもあり、今回は特に並々ならぬ気持ちがあったようです。

その気持ちが伝わってくるような演奏でした。



13:40~ PMFアンサンブル演奏会
 PMFオーケストラ・メンバー
 PMFファカルティ・メンバー
メノッティ:カンティレーナとスケルツォ
 フランセ:木管五重奏曲 第1番
 クーツィール:ブラスシンフォニー 作品80
 フランセ:十重奏曲


プログラム紛失のためあいまいですがメノッティの前に

もう1演目パーカッションのアンサンブルがあったのです。

素晴らしい演奏だけに本当に惜しい(つд⊂)

打楽器だけなのにどこまでも奥深く広い世界を垣間見せてくれました。



15:10~ 未来のPMFアカデミー演奏会
 阿部 博光(指揮)*
 ダニエル・マツカワ(指揮)
 PMFチェンバー・プレイヤーズ
 HBCジュニアオーケストラ
 ベートーヴェン:エグモント序曲*
 ベートーヴェン:交響曲 第5番 ハ短調 「運命」作品67
 チャイコフスキー:序曲「1812年」 作品49


ジュニアオーケストラは小学生~高校生までいます。アカデミーの卒業生もいたとはいえ

この結構体力使いそうな演目をよく溌剌とやり遂げたなあというのが実感です(´ω`)

最後のチャイコフスキーでは東海大四高校の吹奏楽部から金管セクションが応援に入り

全員合わせてすごい大人数で大迫力の演奏でした。

これが終わった時点で帰る人が結構多かったのですが、憶測ですが巡回公演ルートに入らなかった

道東から来てる方とかだったのかなあと思います。

本州の人にはわからない感覚かもですが、釧路や根室からこっちに来るのって本当に時間がかかるんです。

��札幌~釧路間だったら特急でも四時間弱)

明日は月曜だし電車の関係で泣く泣く帰られた方もいるのではないかと(´・ω・`)



17:00~ PMFオーケストラ演奏会 ~ルイジのマーラー「巨人」~
 ファビオ・ルイジ(指揮)
 トーマス・ハンプソン(バリトン)
 PMFファカルティ
 PMFオーケストラ
 マーラー:リュッケルトの詩による歌
 マーラー:亡き子をしのぶ歌
 マーラー:交響曲 第1番 ニ長調 「巨人」



個人的に楽しみにしていた演目です。

さて、バリトンのトーマス・ハンプソン氏。

私の座っているとこからステージまで100mは離れていたのですが

それでもわかるデカさ。

手を携え登場したルイジさんが連行された宇宙人のように見えましたw

「亡き子~」がプログラムでは先だったのですが急きょリュッケルトを先に歌うことになったそうで

気持ちの流れ的な問題なのかしらと思ったり。そのプログラムに書かれた訳詞も素晴らしかったです。

子を亡くした現実をわかっているけれど受け入れられない苦しみを描いているあたりが・・

��ああ、プログラム・・・)

内省的で派手ではないけれど響く歌声でした。


そしてこのフェスティバルのトリを飾る「巨人」です。

第一楽章は本当に周囲の森と溶け合うよう(*´ω`*)

オーケストラは国内外で活躍しているソリストばかり。

どの楽器も遠くからでも一音一音はっきり判りました。

漲った、というか抜かりないというか、はちきれそうな何かをものすごい絶妙なバランスで

巧みに振り分け一滴たりとも無駄にしないような指揮と演奏でした。


pmf2.jpg

一気にたたみかけるように終わった瞬間、観客は総立ちで拍手。

何度もカーテンコールを繰り返されて、指揮者も演奏者もやり切った感の笑顔が並ぶステージ。

音楽に関わるそれぞれがきっと思うところがあった今回のPMF。

クラシック通なわけではない自分でも「これはひょっとしたら意義深い瞬間に立ち会えたのかもしれない」と思えました。

音との出会いも一期一会なのだなあと、演奏も全部終了したしいいよねと

携帯で映した写真はいい感じでボケていましたw



pmf1_20110731223000.jpg

来年はどんな音に出会えるのだろう。

2011年7月31日日曜日




癒しってなんだろう。


少なくともわたしにとっては、優しく頭を撫でて慰める類のものではない。


自ら立ち上がり進む力を、気づかさせ沸き立たせるものと思う。




きっとそれぞれ違う音色でも、皆ではなく誰かのためにでも。

2011年7月26日火曜日

再生への調べ




大きめのボリュームで聴いてみると、しみじみと大きな懐に抱かれている感覚になる。


ふたたび誰かを信じる事や、失ったものを探すことをゼロから始めるということは


実に果てしなく、辛い道程だ。


ただ、時間のみがそれを受容していく。


でも人生の終わりでふと振り返った時の、無為であったはずの歳月が自らの軌跡として


きらきら輝きながら遠くから続いている様を見つけた時の感動を


わたしはこの曲からいつも感じている。


何時如何なる時でも、自らの足で踏みしめたものは豊かさとなって返ってくる。


一切を微笑んで全うできればと思う。

2011年7月24日日曜日

ネガポジへの素朴な疑問

中庸を地で行く私だけど、もちろんその時の状況によって気分に上下はあったりするけれど


落ち着かない先行き不透明な最近の情勢で、人も両極端に走りがちな傾向にある。


個人的にはネガティブもポジティブも詰まるところ同じな気がする。


「自分目線でそうであってほしい世界を現実に望んでいる」という点では。


前者はダークな空の、後者は明るい太陽の、その下には同じお花畑が繋がって拡がっているのである。


その花畑の美しさを語るというのは、机上論のもろさや生産性のなさの言い訳にはなるけれど、


本当の意味での思慮深さや精神性を高める足枷にもなるのではないか。


と、ツイッターでときどき見かける日本終末論とか自然エネルギーとか安全と平和を求めてとか


目にする度考えたりする。





生きている上で何らかが「欠けたり」「飢えたり」という経験があれば


ネガポジもへったくれもない境地になったりするのだけど。

2011年7月21日木曜日

Song for you





月明かりの下で はじまる物語


涙の奥の喜びは 本当さ 永遠に続く


幕が下りても ずっと

2011年7月19日火曜日

時には苛まれたり

お金とか食べ物とかもそうかもだけども

本当の意味で恵まれている、という事は

疑問もなく自分なりの正論を貫いて生きていけるという事だなあと、

嫌味じゃなく思う。←僻みは爪の先くらいあるw



我がままというのではなく(結果的にははそうなのだろうけど)話をしていて

え、そこで自身に対して葛藤はないのか?と思った時

「ああ、この人は今までそういう葛藤を必要としなかったからたぶん発想すらないのだろうな」

と悟ったことがある。

そうなると同じ土俵の上では腹を割って話せない。深みまでいけない。



絵や文学や音楽に対する、というよりは生きている上での物事に対する感度が

とてつもなく鈍い人と会話する時、そういう意味で途方に暮れつつ

何だかすごく気楽に見えて(実際その人なりにも悩みがあるのだろうけど)そう思える自分が

僻みったらしく感じてややブルーになったりする。で、自分が細かく考えすぎるのか?とも。

暮らしにゆとりがない反動で内に向かうベクトルは、実は生産性がないことの表れだしなーとも。

ええ、結構クヨクヨしますw




人と接する時、自分の中の見たくない暗い部分が露わになることが時にある。

逃げる気はないからダメージもそこそこあるし、でもどこかで人生の方向転換をしないと

最終的には枯渇してしまう気もする。

心も体もいつしかこわくなってくる(東北方言の「しんどい」の意)

生きる事がこわくなる前に、この感情を乗り越えられればと思う。

2011年7月18日月曜日

音浸り概要

何か発見が出来たり、拡がる予感がしたときは動くスピードが半端ない。

一気にコンサートチケットを3枚入手した時、不思議なテンションであった。

そんな珍しい高揚感の中行ってきます音浸り計画の概要です。


月31日  ピクニックコンサート ~レナード・バーンスタイン・メモリアル・コンサート~
      (札幌芸術の森・野外ステージ)


本州の方だったら「PMFって?」と感じるのではないだろうか。

PMF(パシフィック・ミュージック。フェスティバル)公式サイト
PMF概要

毎年行われるこの音楽祭は次世代の音楽家を育てるためのワークショップ的な意味合いも含んでいます。

私が今回行くのはこれを提唱したレナード・バーンスタインのメモリアルコンサートと銘打った野外演奏会。

そんな31日のスケジュール

かなりお腹いっぱいなセットリスト。

17時からのち夕暮れの中で聴くマーラー尽くしがちょっと興味深いです。

これを芝生自由席2000円で堪能しちゃおうという贅沢。

バリトンで出演のトーマス・ハンプソンはこの方




マーラーを歌ってくださるんでしょうか。楽しみです。




8月6日  North JAM Session RED STAGE
      (札幌芸術の森・野外ステージ)


公式サイト

そしてPMFと同時期に始まるサッポロシティジャズ

North JAM Session RED STAGE出演アーティスト

綾戸智恵の出演もそうですが、津軽三味線とピアノのコラボAGA - SHIOが何だかすごく面白そうです(・∀・)

PVをYOUTUBEで発見。Coolです。



その日は午前中は仕事でそのまま芸森に直行予定ですが、どうもT-スクエアあたりで寝てしまいそうな

そんな悪い予感に今から苛まれていますが、むしろトリの青木カレンさんのときに

そうなってしまいそう・・・ものすごく癖のない歌声が。(努力はする)



美人さんです(*´ω`*)ジャズというよりボサノヴァとか合いそうな声。

私の知らないだけでどこかでもう歌われているのかもしれないけれど。




8月7日  札響特別演奏会 アキラさんの大発見コンサート2011
      (コンサートホールkitara 大ホール)


このアキラさんとは宮川彬良さんの事。今は終わってしまったNHK教育の「ゆうがたクインテット」のアキラさんです。



多分今頃は大人席はきっと完売していると思われます。(わたし買いに行った際すでに残席3でした・・・)

小さい子向けだけではなく大人も楽しめる上質な音楽をも追及していて、ファン層はかなり広いかと。

ちなみにお父様は宮川泰氏、「宇宙戦艦ヤマト」の作曲家です。

2011年7月17日日曜日

ドレミでSmile

雨の中、こちらでも歌会が行われました。

斬新なルビのふり方もそうだけど行の文字を「音階」として読ませる面白さで

一席をとった菊池佐和子さんの作品をご本人の許可を得て掲載いたします。


わらうこと


まんま発声練習ですねえ(*´ω`*)

この歌以外にも前向きな歌が多くて、やや仕事がらみで鬱屈としていた気持ちが晴れたよい歌会でした。

2011年7月14日木曜日

音浸りの夏(予定覚え書き)

予定しているライブ、コンサート鑑賞。

忘れないようにここにも書いておく。もっと行きたいとこはあれど懐と時間との相談の末・・・(´・ω・`)




7月31日  ピクニックコンサート ~レナード・バーンスタイン・メモリアル・コンサート~
      (札幌芸術の森・野外ステージ)

��月6日  North JAM Session RED STAGE
      (札幌芸術の森・野外ステージ)

��月7日  札響特別演奏会 アキラさんの大発見コンサート2011
      (コンサートホールkitara 大ホール)


野外が続くので日焼けに注意しなくては・・・・。

��日は仕事が終わったその足で向かうので寝てしまいそうで怖い(しかも芝生席予定)

��日はせっかくのkitaraなので夏着物で行きます。じゃないと着る機会を逃しそうだ・・。

2011年7月9日土曜日

井椎さんのフランス旅行記の特集。


旅先で纏うその土地の空気や目で見る風景、あらゆる五感で味わう非日常。

五行歌で描く紀行文は、その人なりの表現や感受性の在り方や思考の道筋をも

露わにする「地図」であるのかもしれない。

普段の表面張力でふるふるしながら「何か」を保とうとしている作者の歌とは

ちょっと趣が違っていてベルばら世代の憧れも拍車をかけたか、どの歌もキラキラである。

大事にしまっていた玩具のエメラルドやルビーの指輪の輝きのような

憧憬のフィルターをかけた(レトロ風味天然色カラー)

向こうから現地での楽しい一時や感動が的確に伝わってくる。

良い旅で何よりだったと読む側が思えることがこの特集のよさを物語っている。


しかしいいなーフランス( ´д`)

自分であれば・・・一週間くらいアパルトマン借りてルーブル美術館とそこだけ往復して過ごしたいです。

市場で買い物してごはんも自炊して。旅行きたいなぁ。







2011年7月7日木曜日

弓弦は歌う

気を取り直して、本誌特集をゆるーく書こうかなと思っております。

出来る範囲で真摯にゆるーく(相反してはいないはず)。

その前にいくつか「へえ~」となった演奏のyoutubeなどを貼り付けてみます。






��人のコントラバス奏者のグループ。

イメージ的にずーんとした低音のみと思っていたのですが、何というか

手触り感のある音の重なり方を感じます。高い音を出そうとするほど

逆に深みとか奥行きを感じさせるのですね。




最近話題のチェロのデュオ。マイケル・ジャクソンのSmooth Criminal の演奏で

一躍有名になりましたが、個人的にはこのガンズの演奏のが好きかも。

木管楽器の次に好きな弦楽器もやはりどこか人の声を連想させてくれます。

2011年7月5日火曜日

名と魂

今月の「五行歌」誌のいつものゆるい感想を、と思いましたが

素敵な特集とかも語りたかったけれども、ある歌を目にして一気に萎えまして。



新聞メディアであれこれ叫ばれていて、未曽有の事故の象徴的に書かれているのはわかりますが


それに対する憤りと、その土地に住んでいる人への敬意との区分けはどう考えてますか?と


軽く問うてみたいです。もちろん別です、その土地に住んでおられる方々の平安を心より願ってます


と、言われればそれまでですが。





土地の名はそのまま土地の魂を表すという。



恵み豊かな命が生まれいづる素敵な地名が、カタカナにされた瞬間「記号」になってしまう残酷さを



目の当たりにして萎えたというか。



はぁ。



この溜息でお察しくださいませ。



もう感想書くのやめよっかなー( ´゚д゚`)と一瞬思うくらい。



作品評で取り上げてもらえたのも吹っ飛んだくらい。




いっそ自分が当事者だったら素直に傷つけるのに、と思いました。




そういう訳で今回はこんな感じで申し訳ない。

2011年7月4日月曜日

このブログを作った際に「使わないかもな~」と思っていたカテゴリーを

使う日が来ようとは・・・(大袈裟)

世の奥様達が結構利用しているレシピ検索ネット「クックパッド」

割と前からプレミアム登録していたのですが、せっかくなのでプレミアム特典のMYレシピ投稿などを

ちょこちょことUPしていこうと、ちまちまといじっておりました。

��まだ2品しか載せてません。デジカメ持ってないので携帯の写メールをなんやらして・・・なので。)

基本長時間労働の身で薄給なので、お鍋一つで安い材料で手早く簡単に出来るものばかり

普段食べています。一見男の料理に近いかもしれませんw

普段家で料理しない人や男の人でも手軽にできるんじゃないでしょうか。

基本こちらのブログ優先なので更新頻度は少ないですが興味ある方はどうぞ。

料理ジャンルなだけあって文体ものほほんとしていますw

http://cookpad.com/recipe/1480908

乾いた骨の聴き比べ

黒人霊歌「Dry bones」旧約聖書に出てくる預言者エゼキエルの「枯れた骨の復活」の奇跡の話が

題材になっています。足先から頭まで骨を組み立てていく様子、解体していくかのような様子が

メロディが半音階ずつ上がったり下がったりしていく面白さがあって好きな曲です。

たぶんこの半音階の部分は崩さずにあとは結構アレンジがあるみたいでそれもまた聴いていて楽しい。



日本で歌い始めたのはデューク・エイセス

これよりさらに若い頃の動画がこちら(埋め込み不可でしたのでURLだけで)

http://www.youtube.com/watch?v=K8OQrd-6cBY




そして、Kings Heralds

テナーがかなりハイトーン。最初出だしとラストのアレンジが面白い(・∀・)

歌い手の特色で印象が変わってくるのだなあと思いました。

公式サイトはこちら→http://www.theheralds.org/main.htm

始まりが1927年(!)幾多のメンバーの入れ替わりを経て活動してきた

歴史あるコーラスグループのようです。

2011年7月3日日曜日

この前NHK総合でクイーン特集をやってましたね。

やはりフレディのファッションに内心ウケつつ(半裸にソンブレロハットとか)

これまでの軌跡を辿りつつ楽しめた番組内容でした。






ボヘミアン・ラプソディの歌詞を見るたび「いいからはやく警察に自首しに行きなさい」と

いつもツッコんでしまう。



やはりこの曲が一番好きかなぁ。

2011年7月1日金曜日

解き放ち、生きてゆくという事

かなしみは




あなたが、この歌から見えるもの、景色、感情は何ですか?




それらのイマジネーションは、あなたが心の中で熟成させて、また誰かに伝える時




手のように誰かを繋げられるものですか?




どうかどうか、そうであれと願っています。

2011年6月29日水曜日

ヒロイモノの実感

ただ願い、ただ祈る。

それは手を尽くせるだけ尽くしての最後の手段、人知の及ばぬ領域にのみ

向けられる眼差しでしかない気もする。



感じ方にもよるだろうか。

先が見えないという人もいる。

信じていたものが次々と壊れていったという人もいる。




それでも



来るな!といっても容赦なく明日は来る。


安穏とした日々に見過ごしていた大切なものを


肌身離さずタフな今日を生きていくだけ。



転んでもただでは起きないというのは



痛い経験で学習するとかの意味ではあるけれども



どうせ転んだのなら



小銭や何か拾えるものでもあればはいずり回って



拾っとけ!ということだなと自分的に解釈している。



そしてそれは、ある意味誰の手も借りず



自分の手で確実に大事ななにかを掴めるということと思う。



そんなどさくさも生きていく自信のひとつな気がする。

2011年6月26日日曜日

自分の歌の「芯」だと思っていたものは、借りもののイデオロギーではないのか?

という問いと自戒でもって足元を見つめる。

その時代でしか生まれないものもあるけれど、大概そういうものはいとも簡単に

人の中の情と、普段生産的ではない生業に没頭していた方々(音楽系、文系、理想が天よりも高い、

机上のエコや平和論が好きな人、大正時代における高等遊民のような方々)の

有事での我が身の無力感を刺激し「ちいさな声だけどあげることに意義があるはず(`・ω・´)」

という感情に付け込んでくる。(間違っちゃいないけれど明らかに最近は暴走しているよねぇ)


己しか出来ないことや持ち得ない感性や求心力、実直に日々を確かに暮らすことに目を背けて。

軸のぶれていく人を見続けるかなしさ。

これもまた淘汰なのかなと思えばそうなのだろうけれども。



畑というものは人間と同じで耕し続けなければ使い物にならなくなるのだという。

耕し、植えても食べてもらえる保証はないかもしれない土地で、それでも真摯に土と向き合う姿を思う時

やはり自分のしていることは小さいなと思う。それでも

恥じ入ることがその人たちを忘れぬ一鍬として何の足しにもならぬ歌を作り続けていくしかない。

これが流されずに外から気を掛け続け、遠回しに手助け出来うる最良で賢明な方法と信じて。

2011年6月23日木曜日

廻り始める



再結成の時のですね。十数年の時を経ても変わらないクォリティとそれ以上に

年季の野太さが加わった感。






全ての人が真摯に打ち込んでいる生き甲斐があるわけじゃないし

あったとしても突然消えてしまうことだってある。


支えもなく、その分知恵と工夫でカバー出来ても

それでも生きていくことはこわいことだ。




YOUTUBEでのこの動画へのコメントに書かれているように

また違うようで変わらぬ輝きを見せてくれることで

年を取ることがすこし怖くなくなった。

その場にいた長年のファンの人たち(同世代が多そうだったw)の時間もきっとそう



一度止まって再び廻りはじめるという事の意味を深々と考える。




2011年6月20日月曜日

旅は続くどこまでも

街から街へバスに乗っての演奏旅行、LIVEに挑む前の空気や胸の高鳴り

バックステージの生のわくわくが伝わってくる。




普段一人なのでどうとも思わないけれど、たまーに無性に安心感にとらわれてくる時がある。

根拠のない暖かい感覚。


そういう時はきっと何かの周波数が、上手い具合に私にチャンネルが合わさったのだと

前向き?に解釈している。


どこかの、誰かの、優しい呼吸が

「あ、なんか今つながったっぽい」と感じさせてくれる。

そんな日曜の夜。

2011年6月19日日曜日

産みの源

歌友のフランス旅行記をブログで拝読するにつけいいなあと思う最近(実はフランス好き)。



好きなシャンソン。この歌といえばシャルル・トレネが有名ですね。



ステージ捌きというか中尾ミエ他の世代を激しく思い出した。歌は上手いです。

女性名詞のLa Mer(海)はこれまたフランス語のMere(母)が語源とのこと。(綴りは違えど読みは同じ)

聖母マリアの「Maria」も元をたどれば海の滴を意味するヘブライ語から来ていて

そこから「Marina」(港)(水夫)という言葉も派生していった。

万物を生み育むという共通の深層意識というのがあるのだろうか。

でも言語学も多大な言葉数の比較データがものを言う部分があるらしいので(科学っぽいですね)

一概には言えないだろうけれども。日本語のいくつかの言葉の大元だって

歴史を重ねて違う意味に変換されていったり派生していったりしているのだし。


日本語の「海」と「産み」との関連性はあまり有力な説とは言われていないようです。

「う」は「大」の意味の転、「み」は「水」の意味で、

「大水(うみ・おほみ)」を語源 とする説が有力とされる。
web語源由来辞典より

滋賀県の近江は淡水の海(今の琵琶湖ですね)、すなわち淡海(あわうみ)という言葉が縮まったものであるとされている。

それと上記のような意味合いも含まれているのだろうか。

それでも古事記の国産みの記述などはとても象徴的ではあるけれども。

何だかフランスからずいぶん飛躍してしまった。伊邪那岐の天沼矛(あめのぬぼこ)で

私の思考の海もぐるぐるとかき混ぜられている気分。

��よさげなものも浮かぶ一方へんてこな発想も生まれてくるあたりはまんま神話通りだったりする。)

往く背を見送るという事

今日は歌会。体調が芳しくない方の休みもあっても、久々に顔を見せてくださった方も来て

それなりに楽しい歌会でした。が、病気療養に入るというメンバーの方からのお便りを見せていただき

つくづくこれからの歌会の事など憂ったりした。



��0代後半から80代までの方がいる。

歌会が出来てから14年経ち、その間2名のメンバーが逝去され

創立時からいる方も健康に不安を抱えたり、人生の切り替わり時期とされたのか

足が遠のいている方もいたりする。

代表になった時から漠然とは思っていたけれど、一番年若な自分がこれから幾人もの方々の背中を

見送ることが増えてくる可能性を思うと改めて寂しい。






歌会と過ごした日々は、ある意味人生の一番ハードでタフな時期と重なる分

目に見えない幾重にも重なられた「何か」が徐々に剥がされていくような感覚を覚えた

今回の出来事だった。

歌会あっての生きること!とはあまりにも大袈裟すぎるけれど、少なくとも当時は

歌会があったおかげで死なずに済んだのはほんとう。



去ろうとする後ろ姿に、わたしのこれからの筋道を重ねて見据えろという事なのだろうか。







(´・ω・`)・・・・・・








(´・ω・`)あ、前記事の鼻毛の歌、同点ですが1席でした。←ちょっと?良い話題?

2011年6月16日木曜日

日々の残り物を題材に

まったくの虚構を積み上げて歌を造型的に作り上げる方もいれば

身近な愛しいもの(子供や家族、育てている草木などなど)を大事にスケッチするように

描きとめていく方もいたり、歌の題材は人それぞれ。


等身大の営みと歌の在り様が近くあればいいといつも思っているので

やはりそれに直結した題材を象徴的によく使ったりする。

ざっと今までのを思い出せるだけ箇条書きにしてみると・・


洗濯物 ブラジャー 歯ブラシ 嘔吐 水垢 

排水溝 乳房 トイレ 下着 トースト 湿布

サラミ 半裸 ビール 扇風機 カレー鍋 コンビニ袋 

あんぱん ロト6 督促状 カップヌードル

偏平足 イカの腸



しかし生活感あふれるラインナップw

手が届く範囲で実感できるものを選んでいくと自然こうなった感じ。

理由は後付けじゃないけれど、「五行歌だから」と一行ごとの独立性にこだわって

最初のうちは「題材ありき」で考えすぎてしまうというのもある気がする。




きれいなものをきれいなまま写生するというのも素敵な方法ではあるけれど

絵や写真(はたまた短歌や俳句)では出来ないやり方で五行歌そのものの可能性を

もっと開拓したら楽しいのではと思ってもいる。


ちなみに今週土曜、こちらで歌会があるのだけど今回提出した自作の題材が

鼻毛

題材倒れになる可能性大ですが使えただけで満足しておりますw

瞬間瞬間に生まれがちな「こうあるべき」的なものをささやかに時にはがっつり切り崩す。

自作に関してはそういう意識はし続けたい。

別の側面から見た「一首独立」という意味はこういうことも含まれているのかなとも思ったりした。

��違ったらすいませんですが)

2011年6月11日土曜日

想いの自画像

歌そのものもそうだけども、こういう個人的な独白に近いブログとかに書く文章も含め、

自身のパーソナリティをなぞるというか私の体温が伝わるようなものでありたいというのが理想だ。


言葉を駆使してある世界を表現するというより、書くこと自体が私にとっては

普段思っていることを彫り起こす彫刻刀であり

日常を書き留めるボールペンであり、何よりも

人生の分岐点として我が身を振り返るが如く自画像をデッサンする木炭でもある。

未だ上手く描けたためしがないけれど、案外それを楽しんでいる感もある。




寸分違わず想いを表現できるなんて一生かかっても出来ないんじゃないかと思っている。

でも、それはそれとして「描き続けて」徐々に見えてくるもののリアル感に安心したくて描いている。

勿論その時々の光と影の射し方を忠実に再現しつつ。

歌という形にして楽しい時もあれば悲しくなってしまった時もあるけれど



どれも自画像。紛う事なき自分自身。



受け止め続けていくことに意味があるのだと思う。

2011年6月8日水曜日

排泄の作法

食事中の方は回れ右、もしくは下のなごみ動画など見てなごんでください。



詩やあらゆる表現=排泄という論は私も頷けるところが多々ある。
赤裸々というかフィクションの歌が少ないというのもあるけれど、一時期本当にリアルで行き詰っていて
もう本当に想いのあれやこれやを吐き出さねば心身共にどうにかなってしまうという感じではあった。
なので歌自体の思い切りの良さを驚かれるのも妙に面はゆい気持ちでもある。
そういう意味ではその頃は自作の歌が表現物という意識は薄かった気がする(今もそんなにない)。
言わば自分の排泄したものをありのまま提示して「これは見事なものですね」とよそ様から
何故だか褒められる?居心地の悪さ。
ただ、マーキングのように自身の在処をそこに示すがごとく歌を書くことを自分の居場所としていた感もある。
固いものを無理やりふんばって出す。
出すだけでいいものをそれをわしづかんで周りにぶちまけたい衝動を
抑えきれなかったことも多々あった。
そういう歌は今見るに堪えないものばかりだ。けれどその頃はそうするしかなかった。
あれから状況は変わって多少なりとも平穏になり、汚物を掴むような叫びもなくなったけれど
固いものもさほど固くなくなり一定の配分で出せるようにはなった。
けれど、表出・表現の根底の意味という点では、おりこうさん過ぎるかなと思ったりする。
そしてそう思えるあたり、まだまだぶちまけたい衝動はあるのかなとも思う。
排泄、ただそこに致すという自己完結。余韻と香りを醸し出し、己の内から出すことで
心身を健やかに日常の根底を豊かにせしめるもの。
やっぱりおんなじだ。呼吸も排泄も歌も生きることも。

2011年6月6日月曜日

よしなしごと

五行歌や深い思索など何も考えずに、家事も放り投げてただ無為に過ごす。


この無為さがやはりもの想う土台でもある。


ぴかぴかにあちこち磨いたり整頓することが必ずしも「快適なくらし」であるという事はないと思う。


書棚にきちんと並んでいる本の内のさかさまになっている1、2冊が、まさに自分にとっての


くらしのリアリズムだし、それの写生を通して見えるものを歌にしたい。



��よしなし動画 ドビュッシー 「子供の領分」よりゴリヴォーグのケークウォーク)


ドビュッシーの曲の中で何かコミカルで不思議な雰囲気だなあと思っていたのだけど

本人の演奏をこうして聞いてみると現代聴いているものとテンポが全然違うんだ!と再発見。

大人が子供に絵本を読み聞かせているような優しい雰囲気が伝わってくる。

2011年6月5日日曜日

画面の向こう側の葛藤

野崎さんの巻頭歌。


先月の被災された方の特集は今月も続いているけれど、あえて外域から見た目線を。

当たり前であるけれどテレビや外へ訴えかけるメディアは、美しい話はどこまでも美談に

悲しい出来事はとことん悲劇に、真意はどうであれ輪郭をくっきりと際立てて見る側を前に熱演する。

実際当事者でなくともその場にいて体験しているが如く感情移入をさせる演出。

良くも悪くもそのフィルターは歌を作りやすい。

わたしたちはどう頑張ってもその痛みは肩代わりは出来ない。

それは共感とは別の現実だ。


画面では伝わらない画面でしか伺うことが出来ないという傍観の自覚と、それに対するジレンマ。

それを越えて得たものを時間をかけて歌から感じさせていただきたいなと思う方々の多い

今回の歌誌だった。



主宰のピストルの歌。


実際若い頃の主宰がどうだったのかは存じ得ないが、なんとなくこういう感じの匂いなのかなと思った。

ノレナイ人種

音楽は聴くけども、実はLIVEに行ったのは数えるしかないというのを

ずっと前のブログ記事で言ったことがあるような気がする。

理由としては

1)人混みに酔う

2)出不精(お金もそんなにない)

3)周囲に合わせて手拍子や音に乗ったりに違和感を感じてしまう。

というところ。

よって聴きに行く回数とジャンルがすごく限られてくる(クラシックとかjazzとか)。

3)に関しては我ながらとっても人生損してる感もあるけれども、何だろう、どうしても

どこか冷静になってしまうというか、それはその場の雰囲気だとしても強制的に乗せられるのじゃなく

自分のペースで音を楽しみたいのだ。ほんとに音楽好きなのか?と疑われそうだけどホントなんだよ(´・ω・`)

��)2)の理由を乗り越えて行くという事は本当にそのアーティストの音を聴きたいのであって

それならばせめて肉体にも心にも負担のない形で楽しみたいじゃないか。(言い訳がましい?w)

だから主にCDやYOUTUBEなどで聴くおうちLIVEで専ら楽しんでいる。


あと、どんなに好きでもファンクラブの類に入ったことがない。入る必要性があまり感じないからだ。

あくまで音楽性に惹かれているのであってアーティスト本人に「キャー」とかはまずないし

実際聴ければいい派なのでLIVEでファンクラブの優先席とかではなく、むしろマイペースで聴ける

後ろの席で十分なんである。

そして同じアーティストの好きな他の人と、LIVEへ連れ立ってという事もほとんどない。

そういうのを通してファン同士のつながりで仲良くなったりというのは素敵な事だしいいと思う。

けれどファンとして入り込んで妙に事情通になってしまう馴れ合いもよく見る。

それならば事情まで深入りはせず、いつも新鮮な気分でその時その時の音を楽しんでいた方が

人間関係も含めこざっぱりとしていいなあとも思うのである。




こんなわがままな観客であるけれどもw初夏から夏はなにげに行きたいLiveが目白押しなので

ちょっとがんばりたい。

目玉は8月にあるサッポロシティジャズと宮川彬良コンサート(札響とだそうですよ)

kitaraホールだったら着物で行きたいくらいだけど、お子様連れがきっと多いのでうーんと考えている。

TPOだけは兼ね合いを慮ってしまう小心さなのである。

2011年6月2日木曜日

昔憧れた大人のドレス

たしか中学生の頃だったはず、今はもう手元にはないけどジャケ買いで

買った大貫妙子アルバム「カイエ」独特の空気感と静けさに

太刀打ちできない大人の世界を感じた。



これはフランス語で歌われていたもので、ついさっき初めて日本語版を聴いて

しみじみいいなあと思った。

下の方が日本語版。



ようやく年齢がこの曲をしみじみ味わえるまでに追いつけたのが感慨深い。

日本語版でじっくり聴いた後、フランス語バージョンを聴いてみるとまた違う味わい。




これは知っている人は多いかも。




時の移り変わりを想う。

浅はかながらもその時その時を豊かに生きたつもりだけれども

いつか大きくなったら得られると願っていたものの殆どを、つかみ損ねている今。

まだ手に収められる余白なのだと言い聞かせつつ

次の季節をいつも待ちわびている。



今日から六月。




普段通りの一歩をまた踏み出し重ねていく。

2011年5月31日火曜日

これ聴くとほろり、とくる歌がいくつかある。




原曲はヴィヴァルディの「四季」より~冬~です。





かぐや姫バージョンで。念のためですが私リアルタイムでかぐや姫は知りません。

そこまで年齢はいっておりませんw

お父さんってこんな感じなのかな・・・(´ω`)

親子ものに弱いんだろうか。




原曲はスコットランドの曲。

小樽市花園町界隈の横断歩道のメロディが今も変わっていなければこれですw

故郷への思いを歌っているのだけど元の原曲の歌詞はウフフな内容のようです。

wikiで調べてみると面白いかも。

これも含め明治の唱歌の七五調のたどたどしさと生真面目さって聞くたびに愛おしい。

今もいる自分の中の「子供」の相手を優しくしてくれる歌でもあります。

2011年5月30日月曜日

こそっと懐かしチョイス

一昔も二昔も年配の人か私しか喜ばない今宵のエントリでございますw

私の親世代の人、ちょうど1960年以降から1970年代が青春時代だった頃は、戦後から始まったNHKのど自慢などの歌謡コンクールや

グループサウンズの登場などもあって歌謡曲の幅がぐんと拡がりを持ってきた感じがある。

時代の変遷を経ても長く活躍し続けている方も多い。

群雄割拠の時代で本当の意味で歌手がプロフェッショナルだったとも言えるのかも。




「うっかり八兵衛」の役柄しか知らない人は元歌手だったということに多分かなり驚く。

いつだか偶然見ていたNHKか何かの音楽番組でこの方がゲストで出ていて(まだ八兵衛役で水戸黄門に出ていた頃)

、その時はラテンの曲を何か歌っていてあまりの上手さに物凄いびっくりしたΣ(゚д゚lll)覚えがある

まさに自分がうっかりだったという話。




この人もまたオーディション出身だったのですねぇ。

しかしこれを歌った時は20歳と少し過ぎた頃とは考えられないほどの成熟度・・・。





亡くなる2年前ほどの収録。うーん艶のある声の80歳・・・。

戦前から活躍されていた方は大体音楽学校できっちり歌唱を学んでいて、

そこが長らく現役を続けられる基礎となっている。(20代と60代の肺活量平均とか調べてみると

やはり1000ml近く落ちるようだけど、それでも補って余りある(´ω`)

まっすぐ前に声を飛ばす意識で歌う、って今のアーティストではいないのではないかなぁ。)



昔から歌っていた歌手が大戦を乗り越え戦後の混沌の中でも、この藤山先生を筆頭に

変わらぬ歌声を聴かせてくれる姿は、見えない明日を進む勇気をきっと聴く人に与えただろうと思うし

こういう方こそが「あえて今、自分たちが歌い続ける意味」というのを身を以て

追求してきた大先輩なんだなあと思った。

2011年5月28日土曜日

正しき言の居心地のわるさ

仕事へ行く前に本屋で雑誌を立ち読みしていた。

段組みと文字バランスの読みやすさと写真の美しさで、刊行されてるときは必ず目を通すくらいに好きな雑誌。

その中の一文に、ふとひっかかった。つまりは自分たちの作り出したものが生んだ災厄は

自分たちで後始末をしなくてはというニュアンスの文であるけれど(もうあちこちでゲンパツゲンパツと

口を開けばその言葉に正義の常套句を付けて熱く語られることに辟易している。

話題に出したくないというよりそれについて的確に建設的に語っている訳ではない人というのが多すぎるんだ。)


至極正論で、元来どう対処すべきかを簡潔に語ってくれている。



ただ、何かが違う。思いの重石のようなものが。何でだろう?と思った。



で、こう考えてみた。

もしも自分がこの立場になって同じように当事者ではないけれど逡巡し考え、こういう考えに

至ったという事を話して文字起こしされたものを、誰かが読んだとする。

その誰かも多分似たような感覚を感じる気もする。


もちろんその事に関してどうこうということではないけれど、あくまで文字という形として

改めて読んだ場合、当事者ではないという絶対的厚みの違いと距離感がものすごく伝わってくるという事なのだ。

※でも引っかかったのはその文だけで取材された方は確固とした意志を持った魅力的な方でした。

それを差し引いても今回の記事はどれもおすすめなのでお金入ったら買います、とフォローw




そして自分を鑑みつつも省みつつ今、ブログを書いていたりする。




大いに主義主張を語れるこの場所であるけれど、むしろそういう考えに何故至ったかを

堂々巡りになりつつ頭ををもつれさせつつつ、そしてずかずかとうつくしき正論で

��これって時には凶器だよな)踏み込むのではなく

脱いだ靴をちゃんと揃えてお邪魔するくらいの姿勢で言葉を紡いでいくというのが

読み手に対して誠実であるよなあと思った。

五行歌脳で紋切り思考になりがちなのは意識していかないとなあ、

うーんうーん、気をつけねば―と夜は更けていくのであった。

2011年5月25日水曜日

歌友がツイッターで呟いていた「想いを固定してしまう言葉の怖さ」について考えてみる。(大して深くもないですが見当はずれな感も多々・・・)

なのでそれに対しての個人的見解をつらつら書いていくという、いつもの意味不明さなので(当人宛のスタンスです)

今回は畳み記事です。覗いてみても構いませんが本当に意味不明なので(;´Д`)

代わりにyoutubeからかわいい画像貼っておきます。(なんのブログなんだかw)



形状記憶合金まではいかなくとも、想いの形状を再現しているものが言葉と思っている。
なので言葉そのものは「記号」「ツール」という感覚。仮面であり張りぼてでありそれはどんな装飾をしようが
どう作り変えようが自由だけど想いがみちみちに詰まってやっと、その言葉の意味になりえる。
違ったらごめんですが何となく言葉そのものの怖さというより、言葉を固定してしまう、そして言葉であやふやにしてしまう
自身に対する歯がゆさなのかなあと感じた。(この2方法は違うようでいて同じである)
文字でも絵でも話すことでも伝えられない表現しきれない、でも固めたくないけれど形にしたい
もどかしさの根本的な正体って何だろう。
個人的に思うのはそれはいくばくかの「自我」なのではないだろうかということ。
どっぷりと味わいたい、でも誰かと少しは共有もしたい。
自分だけの楽しい時間、でもそれでいいのだろうか。
平穏な日常の中で満たされてはいるけれど閉塞感もないこともなくて。
それでも少しずつ様々な人や創造物と触れあって、ふやふやっと目覚めてきたものとそれを表現する上での葛藤・・・
��と、ここまで書いてきて思い当たる人が結構周りにいることに気が付いた。あんな方こんな方、しかも共通点もある)。
ふんわり毎日を過ごしているようで(そう見える)内なるささやかな揺らぎを抱えている。
その揺らぎこそ、まんま歌じゃないかなと傍から見れば思うのだけど当人が自覚しないと
形にならないのだろうしなあと傍観するしかなくて。
想いを解き放つ、その段階に踏み出すまでは怖いかもしれない。
踏み出さない選択ももちろん出来る。いつまでも同じでいいのならそれでいいとも思う。
でも
見る世界が狭ければ、言葉も狭まる。
その中に収めようと思うほど、形だけの言葉になる。
迷うほどに、言葉は無味無臭になる。
もういいや、と放り投げれば、何も伝わらぬ言葉になる。
言葉を穏やかに拡げるのも、つまらなく収めるのも、綴り手次第なのかなと。
自分だけじゃなく関わりあるすべてのものをひっくるめて、あなたはあなた自身を全うしていますか?

2011年5月23日月曜日

昨日の歌会で、久々に東京から戻ってきたT水氏も

「やっぱり、震災の歌は書けないね。僕らがテレビで見ているのと実際遭遇した人たちではやはり違う。」

と言っていた。心の中で大いに頷く。


遠くから垣間見るしかなかった今回の事で、私自身、というよりものの見方や歌への向き合い方に

なにか変化はあっただろうか?と自分に問うてみる。




とにかく様々な人や知己ある方の惑い悩む様子や見えない負の部分を、そして大きな災害というテーマで

全国民が考え動き、論議し、労わり合う様子をSNSやツイッターなどで垣間見ることで

私自身もの思ううえで考えにも及ばなかった視点や深み、拡がりを発見出来た。

ただ、自身にぴったり添う「真理」を滲ませる言葉はそこから掻い摘めることはなかった。

情報は本当に手段でしかない。そしてそれは心の安心や安全を約束できるものでもない。

耳触りのいい言葉やこれぞ正義だと掲げる美辞麗句もある。けれどそれを「投げつけられたような違和感」を

感じられるのはどれくらいいるだろうか。情報そのものじゃなく言葉に躍らされた感がある人を見るにつけ

「それって歌を通して言葉に接している人としてどうだろう?」と思う事もあった。

自信を省みてもっともっと「筋金入り」で向き合うべきだと肝に銘じた。

で、大事なものとそうでないものの見極めはいよいよはっきりしてきた感もある。







歌に対する姿勢では、(前記事~書くことで)で書いたこととさほど変わらないけれど

「やはり自分自身のリアルな実感が大事」だと思いは強くなった。

それは表現するスタイルが写実でも虚構でも同じことだと思うのだ。

手に触れる半径分でも(人によっては庭の花でも本でも子供でも)かけがえないものに対しては大事に向き合いたいとも。


そして、限りなく自己完結な自分の歌ではあるけれど、ふと読む側への意識が出てきた。

普段向き合っている真理には目を離さないけれども「手」だけは差し伸べているといった具合に。

繋がりという重要性を図らずも感じた部分もあるかもしれない。それが多分「歯車」の歌が生まれたことに繋がる気がしている。

震災前だったらまず、ああいう発想は生まれなかっただろう。

基本誰かのためじゃない自分のためだけの詩歌であるけれど、手だけ、手だけ出しておくことで

私の世界が少しか変化するきっかけになるかもしれない。その手を誰かが握ることでまた違う拡がりが

出てくるかもしれない。(やさしさに非ず。そういう意味で貪欲になってきたという事で)

繋がることで「互いの深い部分を少し潤わせる」そういう可能性を私自身にも見つけ出せた事は大きかった。


ちょっとこれは他の歌をしている人に参考までに聞いてみたいなと思う。

・ものの見方や思い方の変化はあったか。

・歌に対する姿勢はどうか。

お暇な方はコメント欄にでもどうぞ。




涙や憤りは、私たちが代弁することで減ることはない、とすれば歌うことはただひとつしかないと思う。

流されずその人それぞれの「ただひとつ」と向き合うしかないのではないか。

他者の辛抱強さに目を見張れるのなら、あなた自身の弱さを見つめなくては。

世の不条理と同じくらい、あなた自身に憤らなくては。

当たり前だと思っている平穏を、より深く大事に描いていかなくては。

2011年5月21日土曜日

日々讃えるもの

さむがりやのサンタ (世界傑作絵本シリーズ―イギリスの絵本)さむがりやのサンタ (世界傑作絵本シリーズ―イギリスの絵本)
(1974/10/25)
レイモンド・ブリッグズ

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子どもの頃好きだった絵本のひとつにこの本がある。

この中でクリスマスプレゼントを配り終わったサンタさんがシャワーを浴びながら

歌った讃美歌「天(あめ)にはさかえ」がこれまた好きな讃美歌「Hark! The Herald Angels Sing」の

日本語バージョンだったことを知った。三十年以上経ってリンクした偶然。






日本語版はこちら。こちらの方がなじみある人は多いかも。

1.「あめにはさかえ み神にあれや
つちにはやすき 人にあれや」と
みつかいたちの たたうる歌を
ききてもろびと 共によろこび
今ぞうまれし 君をたたえよ

��.さだめたまいし 救いのときに
かみのみくらを はなれて降り
いやしき賎(しず)の 処女にやどり
世びとのなかに 住むべき為に
いまぞ生まれし 君をたたえよ

��.あさ日のごとく かがやき昇り
みひかりをもて 暗きを照らし
つちよりいでし 人を活かしめ
つきぬいのちを 与うるために
いまぞうまれし 君をたたえよ




幼稚園がプロテスタントだったせいもあり割と讃美歌や教会は身近だった。

そして私自身やうちがキリスト教でないにも拘らず、どういう訳か昔から

うちに旧約聖書に置いてある。何であるの?と昔聞いた覚えがあるけれどもどう返って来たかは定かではない。

という事はたぶん母が買ったのかもしれない。

自らの本音や弱い部分、深層に触れることに関しては口が堅いからきっと理由は言う事はないだろう。

そこは何となく察することが出来るので特に聞くこともないし本人もはぐらかす可能性が高い。

幼稚園で頂いた新約聖書と共に並んで今は私の本棚にある。


クリスマスとは関係なしに口ずさんだり鼻歌とか讃美歌率が高かったりする。

何よりわかりやすくて覚えやすいメロディー、個人的には神様に向けてだけではなく、日々の糧や

生まれ来る命や営みへの感謝を込めた生活歌だと思っている。

わたしたちが何気に「いただきます」「ごちそうさま」を言うような感覚で

アメリカや西洋での食事前の「祈り」は暮らしに密着した習慣であるように。


とか書きながらあれこれ見てたら私が通っていた幼稚園のブログ(隔世感がありますなあ)を見つけてしまった。

小樽中央幼稚園

結構緑豊かでしょう。庭がまんま小さな森で私の緑好きルーツはきっとここから。

あまりの変わってなさにじーんときた。ちょっとだけこの頃に帰りたくなった。

2011年5月20日金曜日

Spring ephemeral

春先に咲いてしばらくして花を落とし、あとは地中で球根状態で冬を越すという草花の総称を

Spring ephemeral(スプリング・エフェメラル)というのだそう。

そういえばその時期は小樽に住んでいた頃毎年あった登山の時に(小樽の小学校では毎年の行事)、それらの花々、

カタクリやエゾエンゴサクを必ず見かけた覚えがある。

他の生態系との関連性もなかなか興味深い。→wikiページ

南側だとこういう光景はめずらしいのだろうか?春と言えばわたしはタンポポとかよりもこういうイメージが強い。

湿った土に木漏れ日の下一面に咲いているカタクリなどの群生。

どこからか湧水の音も聞こえてくる。土の中からかのような木の中からかのような。




永い眠りの時間に備えて短い春のぬくもりを精一杯溜めこんで咲いている花々に

なんとなく重なった歌を万葉集から見つけた。


冬こもり春咲く花を手折り持ち千たびの限り恋ひわたるかも(柿本人麻呂)


北の春の短さは、きっと儚いだけではないよ。


待つ尊さ、待てる強さを知ればこそ、この地で過ごす季節を改めて好きになる。

2011年5月19日木曜日

営みを紡ぐ手たち

誰が偉いとかではないが、実際「その場」で体感して実感したという時間と

その時間の途方のなさへの絶望と、それでも待ってくれない現実とを噛みしめつつ

再生の道を拓こうとしている人々がいる。

その大多数が目立たぬところで人の営みを支える手を持つ人たちだ。


漁の網を繕う漁師の手。

流されてきた瓦礫の木に鉋をかける大工の手。

赤黒く焼けた土色の指でつぼみの世話をする桃農家の手。

休むことなく動かし続けている手の雄弁さは、どんな遠方からの他人事の空論よりも重い。



その確かさで日々暮らすその人たち自身の営みをわたしは尊重したい。

それぞれの死生観の領分の向こう側から。

何を言いたいかというと・・・
もうね、皆さんびびりすぎ、論理的に考えも出来ずに憶測言い過ぎ。
いっそそんなに生きるの怖いんだったら( ゚Д゚)<氏ね!と言いたいです。
満たされたあったかい場所からあーだこーだ言う暇があるなら建設的にプラスになることをとっととしやがれと。
勤め人なら働いて、遊び人なら遊んで経済を回して、
うたびとなら被災された歌人さんが改めて五行歌が自分に寄り添ってくれるんだ、と
心つよく思えるような良い歌を書くと(自分で書いててえらいハードル高く上げたなオイw)
今のところ知っている五行歌関係の方にはそこまでテンパった人はいなさそうなのが安心ですが。
ふんとにもーヽ(`3´)ノなこの頃です。

2011年5月17日火曜日

どしゃめしゃの勇気を

今宵もサンボマスターをお送りしますよ。

ベストをヘビロテしているのだけどYOUTUBEに上がっているLiveの様子とかも

飽きずに見てしまう。

表題のようにやぶれかぶれでも進む勇気が必要な人は、きっと今多いと思うのだ。








ところでこの「どしゃめしゃ」ってどこの方言なんだろう。調べてもわからず・・・。

2011年5月16日月曜日

縫い綴ることば

札幌駅から大通までを繋ぐ地下通路。札幌駅の入り口地点に、アイヌ文様を模ったタペストリーが

展示されている。アットゥシ(民族衣装)や工芸品、祭具に及ぶまで施されている文様は、思いを込めて

縫うことによって魔を祓う魔除けの意味合いを持つ。

11-05-14_002.jpg    11-05-14_001.jpg

携帯の写真なので精度が・・・。

今でいうところのチェーンステッチ、アップリケな手法で縫われている。ちょっとしたものでも

自分でもできるんじゃないかな、と思ったけれど、たしかこの見事な線対称な模様

下書きとか元絵とか一切なしで直接布地に針を入れていくと聞いたことがある・・・(汗

祖母から母、その母から子へと受け継がれていく技術なのだそうだ。


自然や神様をテーマに縫いこまれた「想い」の息づかいにつられて

数分ほどタペストリーを見つつ、箇条書きながら即詠したものを

一首だけ置いてみる。即詠なので推敲なしですいません・・。

この写真とは違うタペストリーを見て詠ったもの。



湖沼

見えざるものに触発されてまた違う世界を垣間見れるから、こういう即詠は楽しい。

でもその逆に自分の歌で誰かのイマジネーションのきっかけになるということって

あるんだろうかとちょっとダークになるけれど(´・ω・`)

札幌市民の方、何かのついでに通りかかったらトートカムイのタペストリーを探してみてくださいませ。

これだけではない他の作品も見応えありますよ。

2011年5月15日日曜日

考え続けることをやめない

考える事が昔から好きだ。

様々な事、これからの事、答えが一つじゃない事は特に。

しかし答えがすぐ行きつく事に関しては反射的に「決める」

女一人これから生きていく分にはどうにかなってきかたらこれからも「どうにかする」

明日なんてわからないから今日踏む足元だけを影も込みで「見つめる」

二元論は「あてにならない」答えを持っていると言わんばかりの人は「信用はしない」


割とそういう落差があるのできっと人によっては付き合いづらい部類に入るだろう。


とかく考える事がぐっと増えた今日この頃。

取捨選択、わたしの暮らしのリズムをとるが如く、あれはあれ、これはこれと思考を仕分けする頻度が

多くなってきたけれど生きていればこういうこともあるさと普段通りにやっていきたい。

煩雑になるほど考える手間が増えて、しかしそれは確実にわたしの思考を磨いてくれるものだ。


ことばと暮らしを密に重ね合わせた先に見えてくるものは何だろう。

何故家で作るカレーライスはついついおかわりをしてしまうのだろう。

時々他人に考えさせて、自分ではものを考えようとしない人がいるけれど何故考えようとしないのだろう。


わたしは考え続ける。


あのひとはどうしているだろう。

全国歌会の休憩時間通りすがりで向こうから挨拶してくださって嬉しかった

透明な野草のゆらぎのような歌を書く人。

心には掛けていることを伝えてもたぶんわたしの言葉は上滑りする気がするし

日々を揺らがさぬように暮らしている様を想像することしか出来ないのだけれども。



でも



わたしは考え続けることをやめない。




気に掛けることが、天上から垂らされた糸のような儚さであっても救いの一筋になるなら。

グルーヴ・ライフ

ツイッターでチャカ嬢(チャカ・カーンにあらずw)発見!あまりの懐かしさにちょっと感動しました。

チャカと言えばPSY・S バービーとかBOOWYとかの頃に、高野寛とともに聴いたりしていましたよ。




特に好きな曲。

好きだけども分かり合えない寂しさともどかしさ、彼女たちだけではなく

結構他のアーティストの曲も心の襞の細かい部分を書いた歌詞が多かったような。


懐かしい再会とともにまた身に染みるつぶやきをのこしてくれていた。

生まれ変わり続けて皆生きていく、皆同じ。


人は歩く、心臓はリズムを打つ、肌は28日に一度生まれ変わる、
眠っていても一定のリズムで呼吸をする。。
人は存在そのものが音楽。自然のグルーヴ。
普段の自分をグルーヴさせられない人が
音楽してる時だけさせようとしても出来ない。
一瞬出来ても続かない。


2011年5月12日木曜日

Goodnight song



その土地に住む者だけが纏える風ってあるよね。

沖縄の夢を見ながら眠ろう。

2011年5月9日月曜日

汗をかかぬ文字

昔の職種(イラストレーター)の肩書きを、実はあまり好きではなかった。

妙によそ行きの服を着せられているようで、好きで始めた事ではあるけれど

そう呼ばれること、もしくは必要があって名乗らなければならなかったことに

すごく違和感を覚えながら仕事していた。



そのうちあれこれあってすっかり足を洗って、まさに浮き草状態wで現在に至るのだけれども

好きでやっていた仕事より、別段思い入れのない今の仕事の方がある意味肩肘張らず気安さと

風通しの良さを感じている。もちろん仕事だからいい事ばかりではないけれど、体を動かして

汗をかいて、得たものの重さや確かさがじわじわと自分に染み込んでくる感覚は

机に向かって楽しむのが仕事だと思って絵を描いていた頃にはなかった。

「はたらく」という深い意味を、固執していた「好き」なものを棄ててようやく見えてきたのだと思う。


つくづく不器用である。

前いた業界の人から見ればきっと「落ちぶれた」部類に入るのだろう。

それでもわりかし自由な立ち位置でマイペースに現場で作業しながら、日々の移ろいに心を預け

もの想う、という暮らしの中で私という人間の生きるリズムと向き合えることが尊く思える。


ちなみに表題は「カタカナ」考えてみれば自分の考えていたはたらく、というイメージが

イラストレーターと結びつかなかった部分があったのかもと思ったり。

ドライバーより運転手、ミュージシャンより音楽家、コックより料理人

不思議と漢字の言い回しだとその職種であることの自負すら感じさせる気がする。



私はどうだろう。

職種というより私自身であることに違わないという意味なら、自分の名前になるのだろう。

石垣りんの「表札」の詩のように。

想うこと、書くことと私の暮らしをもっともっと重ねていければと思う。

2011年5月7日土曜日

手から手へ繋がる季節

ようやくサッポロでも桜が開花。肌寒い中風に揺れつつ。

携帯からだけど気前よくどーんと貼ってみる。

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そして梅。こちらでは桜と共に一緒に咲く。

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少し近づけば香り立つ、薄曇りの空気になおそれを感じた。


南の方に住む友人から始まる桜の便りを愛知や東京を経由して北上してくるのを楽しみに待つのが

北に住むささやかな楽しみ。

縦に長いこの国に住んでいる実感を感じつつ、この季節だけは

あたたかい場所から、順繰りの手渡しで届いてくるような気がしている。



留まらぬ時間のかなしみも儚さも、そこに意味があると信じたいように


届いているよと、どうすれば伝わるだろう。


次咲く季節を待ちながら考え続けていこうと思う。

2011年5月6日金曜日

そこに在って見える視線

被災された歌人さんたちの特集。

その場にあった状況がどれも目に飛び込んでくる。ああ、こういうことだ、と。

其処にいなければ、どんな慰めもまやかしで、心配りも欺瞞でしかない。

これは簡単に「形あるものはなくなるけれどまた違う形で蘇ってくる」なんてどの口で言えるだろう。


まさに子供さんを抱いて高台へと駆け上がる、今まで見たことのない切羽詰った呼吸の工藤さん。

不自由の最中でも善意の在り方について鋭く見据える中野さん。

どの歌も根底にあるのは、この状況において自らの出来る事、生きてゆく道筋を模索しているという事。

歌うことの本質すなわち生きることの理由はそこなのだと思うのである。




この事実に、当事者になりえない私を含めた皆が、黙って強く打たれればいい。

そこから何を思えるかだ。

2011年5月5日木曜日

天津神・国津神

神社の相性というのはやはりあるらしい。

毎年初詣に行ったり厄払いにお世話になっていたのが弥彦神社。本社は新潟にあるそうで

��天孫の天之香具山命が祀られている。)新潟からの開拓者有志で作られたよう。

たまに誘われて北海道神宮に初詣に行った時、何だか微妙に落ち着かない気分になる。

生まれた時の初七日のお参りに行った神社が縁のある神社と聞くけどもそれとも関係あるんだろうか。

生まれた土地・・・あんな小さい町でも神社が3つもあるのだけどそのうちの一つに春日神社

��天児屋根命を祀っている。)そして稲荷神社もあってやはり由来は同じ天津神系。

そういうのもあるのかなあと少し納得。



昔伊勢神宮の外宮を回った時もある種の心地よさがあった。

神社自体の静寂さは漠然と好きだったけれど、神道と土地との結びつきを強く感じた伊勢に行って以来

その気持ちは確かになった。

ちなみに思い立って行くにしても、何かの都合で誘われて行くにしても

それこそが「お伊勢さんに呼ばれる」ということなのだそうだ。

また「呼ばれたい」ものだなと思う。

思えば昔行った後数年、様々な転換期でもあった。ひとつのそれこそ禊のような。(厄年も続いたし)

次行く時は、また何かが自分の中を回り始めるのだろうか。

その折泊まった神宮会館の食事についてくる箸袋に書かれている歌がこれ。

本居宣長作とは今初めて知ったですw





朝宵に 物くふごとに 豊受の 神の恵みを 思へ世の人  本居宣長「玉鉾百首」より

夕闇の中の灯

連休にもかかわらず、何もすることもなく。

質素な休みはたぶん6月中までは続くと思われるので・・・その分7月8月のjazz週間は楽しもうと。

懸案の秦さんステージはあっちゅー間に完売!だそうです!(゚д゚)




知る人ぞ知る名曲「ブレーメン」

ようやくここに貼れました。貼るのを少し躊躇していたので。


壮大な管弦楽とのコラボ(あの透明板の仕切りは防音?なのでしょうか)ですが

バックコーラスのザ・サスペンダーズのハーモニーが聴きづらいのがちょっと残念(・ω・`)

くるり専用のコーラス隊のようです。

渕上祥人、遠藤由美、岡崎昌幸(スタレビの方なんですねえ)ちょっとお名前伺ったことのある方もあり

岸田さんもいいんですが「コーラス隊だけ聴いてみたい・・・」と少し思ったりしました。


喪失と再生。そこに優しく降る雨。

気持ちが弱った時やはりこの曲にたどり着きます。

人が己を見失う時

多々ある情報の中から、有益だと思うものだけ選んで指針とする。

けれど、有益と思う=自分の求めている100%の安心材料、という図式を

無意識のうちに組み立てている。


猜疑心かひねくれているのか(たぶん両方)数ある情報の中で、自分にとってものすごく都合のいいものを見つけた時

一瞬疑ってかかる癖がある。何かに依存する者はその凭れかかった壁の下敷きになる可能性だってある。

情報だってそうだ。鵜呑みに信じてしっぺ返しを食うのは同じ事。

あくまで自分の生活環境や出来る範囲、実行不可能な事を鑑みて取捨選択していき、

暮らしの歩幅を変わらすことなく生きていく。今はもう、もらい泣きしたり憤りに感化されたりという状況ではない。



何故人は、自らの足元を冷静に見据えることが出来なくなってしまうのだろう。

今大きい災害が起こっている場所は別として、当事者ではない遠く離れた地に住んでいる人たちが

割とそういう状態なのが不思議だ。「信用できない」とか「裏切られた」とかいう声を聞くたびに

「行政とかマスコミとか信用という類のものでもないのに」と思う。

こっちから「すいませーん」と窓口に行って諸々の手続きをして、手続き通りにハンコを押してもらう。

黙ってたって何かしてくれるわけではない。行政は「活用」(もしくは「利用」)するものだ。

情報も、自分にとって有用なものならジャンルを問わず目を通すし、納得いかなければ別のソースを見てみるし

あくまでこっちが自由に選別する立場だ。信ずるに値するとかそういう種別ではないのじゃないか。

遠方にありて、そうもアレルギー状態になるのは、何にせよ常日頃、様々な物事の在り方に深く向き合う手間を惜しんでいた

だけではないのだろうか。生きることに想定内なんてあり得ないのに。普通に暮らせる尊さに甘んじていただけではないのか。

そしてその事を真っ先に自らを省みたのだろうか?

「何かがおかしい世の中」であるけどその片棒を担いでいるのも私たちなのだ。

正しいことで人は殺せるし、正しくないことで命を生かせる。

生きる真理が単純な二元論で収まりはつく訳はない事を、

この混沌からいい加減学ぶべきは私たちではないのだろうか。

2011年5月4日水曜日

ツイッターでミヒャエル・エンデのbotツィートを見つけてそのままフォロー。

哲学にしろ文学論にしろ、透明感のある芯というのか禅などの日本文化にも影響された部分もあるからかもだけど

西洋的でありながら物事に対する姿勢というか「佇まい」という感覚が自分的には近いけど

東洋のどこか達観した部分を強く感じる。

もちろん彼自身の出自やレジスタンス活動などから得てきたもの確立してきたものもあるから

児童文学者とか哲学者とかでひとくくりに語り切れない複雑さとニュアンスがあるのも事実。

それでも何か彼の文章と接する時、静寂な時間、仏閣神社を行くような、

カップから香り立つひとすじの湯気を辿るまなざしのような、穏やかさを取り戻させてくれる。





象徴とは、解くことのできる謎(Raetsel)ではなくて、
どこまでも解ききれない秘密(Geheimniss)ですから。
秘密に満ちたものを求めることが、生涯にわたる父の課題でした。
おそらく息子の私もこれを父から受け継いだと思います。 『三つの鏡』






蝋人形の陳列室では、想像上のものやフィクションと、
現実との境界がまさに消えているわけで、そのために見物人がショックを受ける。
そういうのは、どう転んでも芸術とは程遠いしろものだ。
そういうのは、嘘でしかない。
嘘というのは自分をフィクションだと知らせないフィクションのことだからね。







人間には神話が必要なのです。
神話は人間の生の矛盾を、ひとつの物語やひとつの絵にまとめてくれますから。
人はそれを指針にできる。 『ものがたりの余白』








バスチアンはあの一夜に、あの謎めいた本を読むことにより、
彼の神話を体験するのですから。
それはバスチアンが体験する、彼の神話なのです。
そして、バスチアンは、あの夜、かれの神話を体験するからこそ、
翌日には、外の世界にも向かう事が出来る力を、
彼自身の中に見つけることになるのです。


2011年5月2日月曜日

夜長のダークダックス

私の中で長い事活躍しているコーラスグループといえば真っ先に頭に浮かびます。

たぶん「みんなのうた」とか第一線としてオリジナル曲も数多く出されていたからかと思われるからか。

「セロ弾きのゴーシュ」で好きな場面があってセロの中に野ネズミの子供を入れて病気を治す

��音響の低周波?)という件があるが、バス、バリトンの響きの重なりを聴くたびそれをなんとなく思い出す。

良いHarmonyは血行を良くする、という超個人的私論w




もちろん高音部のハモリも素敵ですよ。この曲の訳詞は石井好子さんだったのか。




中学校の合唱コンクールで歌ったなあ。寒いとこ生まれのせいか東欧系の音楽を聴くと

なんだか気持ちがしっくりきます。しかし4人とも美声。




バクさんの冴えわたる高音。




マンガさんのヨーデル。

2011年で活動終了となったダークダックス。最後までメンバーを変えず歌い続けてきた絆を

こうして振りかえられることが出来るのがしみじみと感慨深いです。

薤露

それにしても、無力なことばに縋らざるを得なかったようなここ最近だった。

それでもこの表題のように、はかない涙に例えるような悲しみは歌いたくない。

もくもくと歩き、もくもくと紡ぐ。

ただ、じっと。




十数年前に母親と駅前の蕎麦屋(地下街再編の前なのでもうそのお店はない)にいた時、

隣り合わせた壮年のご夫婦から話かけられた。

「ふと思い立ってふらっと遊びに来たんですが、3泊4日で北海道を回ろうかと・・」

その無茶振りに母と二人で目が点になった。

北海道1周を新婚旅行に選んだ人たちを2組知っているけど

主要都市、名勝など有名なとこをくまなくポイント押さえて回るのだったら1か月近くはかかる。

実際レンタカーなどで移動してもそれくらいかかるのだから

3泊4日でそれは「いや、無理ですww」と二人で慌てて止めたw

それだったら、富良野や美瑛とか回られてはどうですか?とのアドバイスに

「はーそうですか(きっとわかってない)」とお二人ともニコニコして答えていた。

眼鏡の役所勤めでもしてそうなご主人と上品そうな奥様。



なんでこの話をなんとなく覚えていて、それが最近すごく心に残っているかというと

その3泊4日北海道1周の無理なスケジュールを組んで思いついて飛行機に乗ってきたインパクトと

記憶が確かならそのご夫婦は福島からやってきたはず、ということが重なっているからだ。




通りがかりの旅の方々である。名前も知らない。無事の可否も確かめる術もない。

何を思うにも遠く及ばないのである。どんな心配も遠方にあっては一方通行の感傷にすぎない。


それでも、あの時3泊4日を過ごした北海道の思い出が、お二人の日常の支えになっていればいいと思う。

「また北海道、行ってない所に行きたいねぇ」と思い出し語り合って。

そう願っている。

2011年4月30日土曜日

特にこれ!という主張もなく過ごした連休初日。明日は2時間ほど仕事あるけども

あとは暦通りのお休み。

個人的には連休は3日で十分じゃないかと。それ以上休んだら思考も体もなまってしまうよ。



《五行歌》

6月号投稿分をメールで送った。

歌はここにも出した「歯車」と「静寂の街」「イカの腸」そして「もみもみ」w


《ご飯》

朝から鯛茶漬けという贅沢(鯛の切り身が安かった)。

そしてキャベツと豚肉のミルクスープ。

うちにずっといるのであまり食べない。


《音楽》

ジャパンジャム2011でサンボマスターのゲストアーティストが佐野元春さんだそうですよ、薔子さん。

http://japanjam.jp/2011/artist/#sambomaster

サイトをざっと見て豪華な出演陣以上に感動したのは、出店しているフード類の安さと美味しそうな事!(そっちか)

いいなぁ、関東。

2011年4月28日木曜日

Blue flower

青系の花が特に好き。でも花なら問わないのだけどね。

歌にも書いたエゾエンゴサク。

山に行くと群生していて必ずそばにはカタクリもつるんで咲いています。

ezoengosaku.jpg

そしてラベンダー。花だけじゃなく茎や葉も花と同じ香りがします。

farmtomita3.jpg

遠くから見ると素晴らしい群生ですが、案外畑の中に入ってみると「あれ?」という感じで

拍子抜けします。一本一本がひょろっとしてるからか。

近くで見るとこんな感じ。

koimurasaki.jpg
Provided by http://photo.hokkaido-blog.com/

花尽くしで今夜はここまで。よい夢を。

2011年4月26日火曜日

いざ、森へ

姿形も色も香りも、緑が好き。そこへ誘ってくれるような曲。

十代の頃よく聴いたな~。



これ、アカペラで聴いてみたい・・・もちろん声のみで(*´ω`*)





これも好きな歌なのだけど、4番があると初めて知った!

そしてじーんとくる素敵な幕切れ!3番まですごく悲しげな終わり方だったので感激。゚(゚´Д`゚)゚。




作曲がこの方だったんですね。作っただけあって曲の世界観を十二分に表現できているなあと

思いました。


さて、わたしも眠りの森へ還りますかね・・・。Good night :)

2011年4月25日月曜日

流されないように

ツイッターではやや長めになるのでこちらへ。

単なる呟きだけど、自分にとっては思ってすぐに消えてしまわせたくはないので付箋代わりに。


心突き動かされたり、揺さぶられたりしたものに対して感動と共に

じゃあ、自分はここまで出来るのか?くっそー!という気持ちもある。

大層なことは出来ないかもしれないけど自分のつくるものに関しては無心に、徹底したい。

物理的に出来る出来ないは別として、あなたのしたい事、すべき事、見定める方向。

それは天災だろうが人災だろうが、惑わされたり流されたりしちゃいかんと思う。

大なり小なり誰しも人生の変転があって、翻弄されたりもしている。

でもそんなもので、心まで捻じ曲げられてたまるかよ。

2011年4月24日日曜日

Amazon経由で届いてから延々Macbookでリピしているサンボマスター限定ベストです。

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(2011/04/06)
サンボマスター

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むう。プレミアが付いた値段になってしまってます(´・ω・`)

ここがAmazonの弱点ですね。HMVやタワレコでも売り切れているっぽいので(通常版は売ってます)、

近所のお店を回るかの方がいいかと。とにもかくにも本当にDVDはお得です。

ステレオとご本人たちの(居酒屋トークっぽい)ライナーノーツが副音声で聴ける2バージョンがもれなく楽しめます。


普段言葉に接しているからか、音もそうだけど「ことばの力」というのがビンビンに響いてくる。

皆まで言うな、の空気を読んでこそが日本人の奥ゆかしさというけれども、普段思っている当たり前のことや

ストレートな感情をなりふり構わずぶつけたいなという部分はきっとあって。

私にとっては沸き立つのもあるけれどもそれ以上に「安心感」というのを感じさせる。

真冬、窓越しから見る猛吹雪に何だか心癒されるかのように。


Disc1の方では、「光のロック」や「手紙」がしみじみと好き。あと「very special!!」とかのねっとり感は

色んな人がカバーしてみたのを聴いてみたい。

「世界を変えさせておくれよ」「できっこないをやらなくちゃ」などなども。


Disc2では「愛しき日々」「あなたといきたい」Disc2は不思議な表現だけれど

ロックなのに腰を据えて落ち着いて聴ける。普段jazzばかりかかっているようなカフェに

何気なく混ざっても違和感がないというか。


DVDの方はひとり宴会状態のお供にかかせません。

後からDVDのみまた発売!とかありそうな予感。これだけ詰まっているので結構反響もあるんじゃないでしょうか。

初めてサンボマスターを聴く、という人にもお勧めです。

2011年4月21日木曜日

夏のjazz顔見世

毎夏恒例のサッポロ・シティ・ジャズの2011年公演概要が更新されてます。
http://www.sapporocityjazz.jp/northjam/

ノースジャムもそうですがかなり豪華なラインナップ。

歌舞伎で言うなら団菊祭のような・・・大御所花形勢揃いみたいな。

��/6,7連荘で参戦はもう決めたので(お弁当何作ろうかな?(*´ω`*))

あとはホワイトロックで何かステージを堪能したいなあとも思っている。

これまたなかなかの出演陣なんでございます。
http://www.sapporocityjazz.jp/whiterock/

最低でも2ステージは見ないと惜しい。山下洋輔は決まった。あとは・・・

大橋トリオがちょっと気になる。MJQも。秦基博も超気になる。

他のアーティストさんたちもyoutubeなど駆使して復習しておこうかと思います。

あ、あと協賛としてさっぽろ夏祭りの一環としてあの大通ビアガーデンも開催されています。

��0日からチケットも道内先行発売されていますが28日から全国一般発売開始なので

観光がてら是非。

2011年4月19日火曜日

2011年4月18日月曜日

営みの循環

さて、土曜の歌会。

震災の歌もいくつかありましたが、うまい具合に?春の近さを思う日常な歌に点が集中しました。

そういう和らぎを皆心では求めているというのがよく判る。

心理テストではないけどもその時の気持ちで選ぶ歌も変わってくることもある。

下の歯車の歌は歌会に出した歌。

何となく最近の一連の事に関して考えていたことがうまく収まった感じ。

北海道の方でも、漠然とした不安を抱えている人は多い訳で。

アジア系の観光客も一気にいなくなりましたしね(減ったんじゃなく本当にいなくなった)。



矛盾するような感覚だけど自分的には「怒り」と同じくらい「怯え」は変にエネルギーを使うものだと感じている。

逃げるのにゆっくり歩く人なんかいないし、噛んで含めて怒る人だっていない。

そういう推進力とかパワーは、その場に留まって清濁正負も受け止める地力、そして建設的に

豊かに日々生産していくことに使うのが無理のない気がする。あくまで私だけだけど。

それこそ遠まわしに、誰かの暮らしを循環させることを意識しつつ己を廻らす力に使いたい。


それぞれの音色を奏でるように歯車は廻る。

いつかオルゴールのような優しい調べを奏でるには時間はかかるだろうけれど

それでも廻らすことに意味や意義があると思うのだ。

内職分のシュシュもできたので今日ヤマトで送った。
無事届け!(`・ω・´)

2011年4月17日日曜日

贈る・送る・おくる

以前言っていたちょっとしたものを送るというのはmixiのマイミクさんの日記で紹介された

こちらの支援プロジェクトの事。

http://chiyo.sakura.ne.jp/toshieroom/?p=680
��女優の根岸季衣さんのブログ内の記事です。キャンペーンはもう締め切ったそうです。)

最初から送る側の方で小分けパックをしておけば現地での仕分けの時間を省けて

届ける時間が早くなるし、何より子供たちが中身を見て選べるというのがいいです。

そういう訳で今日はあれこれとささやかなものを選び詰めていました。

男の子用と女の子用、それぞれ2セットずつ用意しました。

基本文具だけれどお楽しみ袋要素も多少あってもいいのかなと思いつつ。


11-04-15_002~001

男の子用。

11-04-15_001~001

女の子用。

それぞれ筆入れ、鉛筆、鉛筆削り、消しゴム、ノートは共通してますが

男の子には縄跳び、女の子にはシールとシュシュ(不肖ながら手作りの)を入れてあります。


いろいろ選んでみて、かなり気を使ったのは可愛いからといってもそれを入れたが故に

喧嘩になる恐れがあるかどうかとか、自分の好み以前に子供世界の定番に外れすぎてないだろうかとか

こういう形の支援は届く相手がほぼ確実に確定できる分、それ相応に使いやすいものを・・と

頭を悩ませましたねぇ。小さい女の子は特にキャラクターものだと「○○ちゃんは持ってるのに

自分は違う(´・ω・`)」と周囲と比べてしまうので。なのでシュシュも別に同封しますw

ちなみ何でシュシュなのかというと、うちにある材料で縫った分「わざわざ買った物」という気兼ねがないのと

普通のゴムで髪を括るのと可愛いシュシュで括るのとでは気持ちの弾みがちょっと違うから。

小さい女の子でも大きい女の子でも女の子のお母さんでもそうではないかな。

ただ、個人的な本当のおまけで送るので「いらん!」と言われたらどうしようと多少びくびくしながら作っていますw

来週初めには送れるかなぁ。

意志ある歯車

日々を


動きながら、物思う

誰もが意志ある歯車。

2011年4月13日水曜日


ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを生で一度聴いてみたいと実は思ってる。

こちらは2007年のもの。

それぞれのパートの腕の見せ所的場面が楽しめます。

何より演奏者が皆楽しそう。



年取らないシンディ・ローパー(20年以上は活動しているはず)

True Colorsもそうだけどダークな歌もどこか救いがあって

寝る前にゆったり聴きたくなる。



行き場のない気持ちや言葉ばかり空に向けて放つのは

疲れないかい?

Please relax. Good night :)

2011年4月12日火曜日

ことばを脇に寄せておいて

11-04-11_001.jpg

今週末歌会の歌も作らずwこういうものを作っていた。

余っている布がそこそこあったので、シュシュを。(おんなのこが髪を束ねるアレです)

月末にちょっと送る予定のものと一緒に詰める予定。

うちにあるゴムと布でちくちくと縫っただけだし、需要があるかは別として

元手はかかってないのでほかされても負担にはならない。

休みの合間に少しずつ作っていかなくては(それよりか歌は?)。

2011年4月8日金曜日

かいつまみ食いClassic

この年齢になって携帯のハーレクイン漫画で泣いてしまってすごく負けた感のある最近ですがw

クリストファー・リーヴ主演の「ある日どこかで」のテーマ曲となっているこの曲。

映像の青いバラが綺麗なのでお気に入り登録に。ずっと探してたので嬉しい。




これは二十代の時ビデオレンタルで借りて観て号泣したのだった。

ちなみに号泣した映画ベスト3の3位。(1位 ニュー・シネマ・パラダイス 2位 塩狩峠 )

大概非ロマンティックな私が感極まったラブストーリー。SFチックでもあるね。


大きいホールで聴いていてあまり疲れない数少ないジャンルの音楽がクラシック。

それでも音に酔っちゃうのだけども、演目の間の休憩中、ロビーでたしなむワインとかシャンパンとか

何だか高揚感と贅沢感あふれる一時を楽しむ、というのはなかなか癖になります。

しかしjazz同様マニアでもないので非常に偏った好みかも。

ブラームスの交響曲1番の第4楽章(しかも後半)のみが好きとかw




そしてショスタコーヴィチの交響曲5番第4楽章。第9も最終楽章好きだしクライマックス好きなのかw




あとユーザーさんが消してしまったみたいだけどニコ動からの転載を発見したので

貼っておきます。(流れるコメントが心中を代弁してくれている)

ワレリー・ゲルギエフの超嬉しそうなはっちゃけ振りの超速「剣の舞」


アンコールなのでネタに走ったのか。それでもさすがウィーンフィルです。感動しましたw