2010年10月24日日曜日

ゴミ出しをするついでな歌作

今、わたしのパソコン周りにあるものをとりとめもなく列挙してみる。

多分靴下を買ったときについていた値段のタグ(の外したもの)。

リキッドファンデーション。

マグカップ。

ガラスコップ。

3色ボールペン。

携帯用のねじドライバー(マイナス)。

つまようじ。

食パンを買ったとき袋を止めているプラスチックの留めるやつ複数。

輪ゴム。


まあ、こんな感じで雑然としているw片付けないさいよという話は置いといて

なぜここにそういうものがあったりするのかは様々な理由や要因があって

それ即ち私の日常の根底を支えている部分でもある。

それらが置かれるに至った状況を遡って思い出し、時にはその状況そのものだったり

そのものずばりではなく、思い起こしての感想だったり、単なるずぼらを己の根底にある渇望みたいなものに

こじつけてみたりと。

掬いとり、掘り起こし、繋いでみたり、そうした後でそれらをリアルへ呼び戻し

片付けたり捨てたりする。軽く机の上でも拭いたりするかもしれない(かも?)。

そしてそれだって歌にはなるのだ。「そこに在る」という意味があるのなら。



基本何かを「つくる」ということに熟考はする。他愛のないことでも大事な事でも

結論が出なくともただ「考える」という行為がかなり好きだが、歌の題材探しに無駄に悩む事はしたくない。

自然な呼吸と考えると机上の上で頭を捻るのはあまりにも自分にとっては不自然だ。

日々の繋ぎ繋ぎの瞬間に立ち止まり、目を凝らし、耳を澄ます。

寝過ごして、髪も梳かさず地下鉄の駅まで大股で歩く。そのリズムだって歌だ。

燃えるごみの日をまた忘れて、置き去りになっているごみの袋も

ぼんやりした頭で考える今日の予定でも

目の前の男性の薄い頭頂部の現実から逃れるための歎美な妄想でも



日常に組み込んでしまいさえすれば、あらゆる深層からの気づきが暮らしに溢れている事が判ってくる。

それらを掬い尽くすにはいくら生きても足りないし、先が見えない。

それが楽しくて生きているし歌という形に未だ飽きていないという事なのだろう。



そんな事を考えながら茹でたパスタはまた腰のないアルデンテなのであった。

しかし、歌のネタが出来たと思えば不味くもない。

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