2010年10月11日月曜日

時代性とか大衆性とか

kiss.png


感受性や物を見る幅が固まってしまうかもしれない。年を経る怖さを思うのはそういう時。

誰しも覚えがある、理屈じゃない恋の原因不明意味不明瞭な疾走感。

どうかどうか(わたしが)忘れませんようにと書いた。

観念的日本語ロックな歌だけど、女だって「やめられねぇ」のである。


人によっては「この言葉は使わない」とか色々ある。カタカナは使わない、という人も前はいたような。

自分の歌に関しては、その時の自分の表現したい思いと違わないなら、カタカナでも外来語でも略語でも

構わないなと思っている。「~というか」→「~ていうか」→「てか」といったように今風に言葉も

短くなってきているけど、個人的には「てか」はOK。つなぎの行に使うと面白そうではあるし

何よりその時代でなくては語れない内容であるほど、歌全体の伝えたい事の邪魔をしない限り

使っていけばいいじゃないかとも思う。



知人とツイッターについて話したことがあって、あの規定文字数が人によっては「少ない」か「多い」かで

楽しみ方も違ってくるだろうけど、携帯メールを使い慣れていれば実になじみやすいツールでもあるし、

他人のつぶやきをリアルタイムで鑑賞するというスタイルが、今の時代の他者との距離感の取り方にも通ずるものも感じたり。

逆に論理的に物事を考えたり構築したりする意識がどんどん希薄になるのでは?という意見が知人から出た。

それもそうだろうけど、ちょっとセンスのある人なら使い分けの柔軟性は持ってたりするのじゃないかなあと思う。

でも昨今のブログなど読んでみてもセンテンスの短い文章がすごい多い。

そして読む側もそういう短さを求めているきらいがあるのかもしれない。

五行歌などはまさに時代にあった部分はあるけど、ただ、これ歌作だけに限らず延々と悶々と考え続ける根気みたいなもの

ベクトルが正反対なその部分の必要性。効率も考えればいいけど、無駄も必要だよねという。

「五行で収まってるからいんじゃね?」みたいな若人が出てきたらなんか大変そうw

そういう葛藤もこれから出てくる可能性も無きにしも非ずだよなあと思う訳である。

0 件のコメント:

コメントを投稿