2010年10月5日火曜日

久々の本誌感想

今日の札幌は雨。


久々にまともに見た歌誌。

そして久々の王生さんの歌はやはり王生さんでとてもよかった。

なにげなく持ち上げて最後に突き落とす、そしてその突き落とされたい側に

読む側がなりたくなるのが魅力。

塩辛と濃厚チーズケーキを交互に食べたようなこってり感。





そして巻頭の野村さんの歌。

「晩鐘」のシーンのような。働き通した手の年輪は

うつくしく、強い。

漁師をしながら画道を極め続けた木田金次郎の手もこうだったろうか。

そして彼ならどういう風にこの手を描くだろうか。

2010年10月4日月曜日

歌のリアルと虚構

私の住んでいる札幌にある大通公園には前出の石川啄木の歌碑がある。


しんとして幅廣き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ


結構前に芭蕉の「佐渡に横たふ・・・」の句の実際を聞いて以来、

��常に荒れてる佐渡の海に天の川が映るわけはない)虚構であるからこそ

完成される世界というものもあるということを知ったのだが、この歌碑を見たとき私が気になったのは

「啄木は実際焼きとうきびとか食べたのか?」

ということだった。

歌以前にこんなしょうもないことのみに興味が湧く私w、疑問の赴くままちょこっと調べてみた。

どうやら明治中頃、札幌市平岸村(現在の私が住んでいる地域だ!)の農家がとうきびを焼いて街角で売り始めたのが始まりという。

地元に住んでいたけど歴史は古かったのねーと妙に関心。

ちょうど啄木が滞在していたときにはもう街のあちこちでとうきび屋台があったそうだから

まさにこの歌の通りの光景だったことだろう。

でも実際食べたのかどうかはさだかではない。街を歩きながら匂いだけを楽しんでいた(お金ないし)のかもしれないし

買ったのかもしれないし、焼いたのじゃなくゆでたのだったのかもしれないし、こんな妄想で秋の夜長を楽しむのも面白い。

秋、ということはとうきびもラストシーズン。過ぎ行く季節の哀愁と共に立ち上る焼きとうきびの煙が

思い浮かんでくる。

個人的には大の男が蟹と戯れて泣いたり、己のダメさ加減にじっと手を見る歌よりは好きだ。


しかしこれジャンル分け「もの想い」でいいのか・・・。

JAZZ like old clothes

英語でチャットをする時、決して流暢じゃないのでウェブ翻訳も駆使しながらやったりするのだけど

ただ、サイトによっては妙な訳も結構あるので訳したものを更に訳するとか、使い分けをしたりしている。

もっぱら最近はグーグルとエキサイトを併用中。


歌をほっておいてた(?)この歳月何をしていたかと思えば、YOUTUBE三昧の日々でした。

働きづめだった脳を一度ストップさせて、メロディという風を送り込んでいた訳です。

詳しくなるときっとつまらないので単純に楽しむようにしているJAZZなどは、私の好きな

古めかしい感じのものが多々あるので嬉しい限り。

なんというか、飲まなくてもすむけど飲むと安心する「水」のような存在のJAZZ。





昔のエディ・パルミエリ。ラテンっていいなあ。




そしてデューク・エイセス。これを見るまでこういうジャンルを歌っていたのか!と
驚愕でした。そしてかっこいい!!




ハリー・ベラフォンテとナット・キング・コールの共演というある意味レアな動画。
二人の歌う姿がえらくチャーミングです。



こちらは比較的最近。踊りだしたくなる音。彼はまだ20代ではないかしら。

こういう音を聴くと、定型を抜け出しつつしかし定型でもあるという五行歌も

もっと遊べる部分を探せるべきじゃないかなとか(もちろん自身に対しての事)

思いを馳せたりする。

言葉の自由さと不自由さ。もっと切実に真摯に摩擦させていかなくては。

そして、遊ぶように息をして、かたちにするのが理想形だ。

2010年10月3日日曜日

手を止めてもの思う

現在2004年度からの作品をwordに入力しているのだけど、2005年12月あたりで小休止中。

この頃はたしか・・・恋愛ごとも事件もなかったが生活だけは切迫していたという

なんとも無味な時期だったような気がする。

だからなんとなく歌も無味で(それは今もか)それに対してしみじみするたび

キーボードの手も止まるという・・・。古いアルバム整理して見入って時間が経つのと同じですね。

なんだろう、平穏な暮らしに憧れて、つい最近までゆるゆる暮らせてはいたけども

それまでいかにおざなりに日々を過ごしていたかが、穏やかな時間の中だからこそ

浮き彫りにされてきた感がある。

そこから少しずつ、「取り戻せないものもあるんだなあ」と自分を納得させていって。

そこから前出の日記に繋がるわけですが。



新たな感情で空虚と向き合うこの時間も、いつか意味あるように熟していくのだろうか。


話は変わって、久々に啄木の歌など見たんですが、あの友人たちが偉く思えて妻に花を買う歌を結構勘違いして覚えてて

ちょっと申し訳なく思ったり。

あれは妻に花を買うという行為で自分の遊興ゆえの貧困の償いをしているのかと思いきや、

奥さんも自分で花を買ってきたりしていたそうで、綺麗なチューリップやフリージアに夫婦して

救いを求めていた部分もあったのだなあと思った。

誤魔化しだけじゃない気持ちもあったのだろうなあ、すまん啄木。

でも誤魔化し7割ほど強く感じるのはわたしだけだろうか・・・w

この人の作品の突っ込みどころの多さはそれだけ普遍的な人の感情の矛盾性と

繋がる部分もあるから今もって愛読されているのだなあと綺麗に終わってみる。

2010年10月2日土曜日

空白という選択肢

今の今まで、やっきになって自分の中の欠けている部分や

持っていないものの空白を代替品で埋めようとしてきたけど

何も埋めない、という選択肢もあるのだなと気付く。

で、その空白を

安易に寂しさとか悲しさという表現で落ち着かせたくないなとも思う。


いたい、つらいの歌はもう書ききったなんて言えないけど。

そういうもの一切抜きで書くことにすべてを委ねられれば最高なのだけど。