歌友のブログやツイッター、マイミクさんの日記の一節からよく思索のきっかけとなったりする。
で、今回はあくまでそのきっかけを考えさせて下さった方宛の記事風味なので
いつも以上に意味不明わけわからん系ですがw読み流してくださいませ。
「現実を知ることと現実を生きることの違い」
昔、これに近い感じの事を舞台と客席になぞらえて考えたことがある。
演劇や大きいホールのコンサートは好きなのだけど、いつも疲れて終わってしまい
感激も台無しになることが多い。なぜか。
私たちは客席に座っている。
そこから伺う舞台の上はもう生身の人間が演じていても虚構の世界だ。
客席に在る自分を意識しながら、精神だけは舞台の上の虚構に触れようとする。
激しくその間を行ったり来たりして、それで疲れてしまう。
虚構にだけ集中すればいいのにどうしても客席というリアルにも意識が行ってしまう。
それでふと思った。
現実を知ることしか出来ないというのは、客席から伺うのと少し似ている気がした。
熱気は感じても、その流す汗や躍動感は自身の実感から遠い。
憧れはあるけども物理的には無理なのは重々承知。
あくまでも客席から眺める人間に過ぎない。
自分は朝から晩まで働いて、言わばスタンダードな「現実を生きる人間」ではあるかもしれないけど
これは後天的に学習していったもので資質ではない。
基本絵を描いたり空想したりが好きな不思議ちゃん寄りなのだけど、それにも関わらず
現実や状況はそれだけを私に課す余裕はなかったというだけの事だ。
実際必要に迫られて「現実を走らさせられてきた」けれどもそれで頭の中でしか物を考えてないことを
��若干スパルタ風味で)学んだ事が出来た。
そのうち自分の意志で「現実を生きる」面白さと「現実を知る」非生産的な豊かさの間を行ったり来たり
することを選んだ。ようやくそのバランスのとり方を両方やってみてわかるようになったのだ。
で、思うのですが
どちらかでしか生きられない歯がゆさ、諦観、それこそが詩だし歌ではないかなと思うのです。
生きられずとも逃げないことは出来る。
そこから生まれたものが「現実を知ることの意味」になる。
どっちがどうとかじゃなく、相対的に考えることでどちらの意義をも吸収して
豊かであれ、ということじゃないかなあと思うのです。
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あのぐだぐたな日記から
話題を展開していただけて嬉しいです。
客席から観る感じ、確かにそうかもしれません。
そういやmixiでかつて「傍観者」というコミュに入ってましたよ(笑)。
今「どこか、さめている」というコミュに入っている(入っているだけですが)のも
そういうところと関係してますね。
私が「知る」側にいるのは、資質と後天的なものがダブルでそっち方向に働いた結果だと今のところ自己分析してます。
��どちらかでしか生きられない歯がゆさ、諦観、それこそが詩だし歌
まさにまさしく、だと思います。
私の過去の作品に、それがわかりやすくダイレクトに出ているかどうかは別として
そういうところから発生したものって確かにあります。
詩乃さんをはじめとして
いろいろな方の歌や、こういった日記などなどから
「現実を生きる」ことはできなくても
「現実を生きるということについて知る」ことができて
それが自分の糧になってきていると思うのです。
もっと豊かになれるようにがんばりたいです。
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言わば脳の筋トレみたいでいい汗をかかせてもらったという感じです。
実際こういう思考の余白を埋める行為が、実際日々にまみれたり、仕事で嫌なことがあろうとw
いいリフレッシュであったり、停滞していた感性に手を入れて空気を入れ替えるようであったりするのです。
知りはするけど、そこでは生きていない、という負い目って誰しも体験したことがある気がします。
思春期の自我の目覚めもそうですよね。引きずってきた歳月の分豊かな何かが
薔子さんの紡ぐ言葉からもきっとこぼれている筈。
いつかそこまではいけなくとも「あ、昔よりは何か近くなった」くらいまで行けば万々歳ですよ。
それで何かまた素敵なものが生まれるかもしれない。
無理せずゆるゆるとまいりましょう。