大なり小なり何かを作るにしろ勉強するにしろ子育てにしろ自分を見つめるにしろ
構築するための労苦(無心でやっていれば辛いも何もないのだけど)を
身に染みて判っている人とする会話は手応えがある。
会話が上手くないとかどうとかというより「におい」や「熱」みたいなものでそれは判る。
デザイン事務所や今のバイト先、仕事ではない知人との交流の中で
何かを教えたり、アドバイスを乞われたりした時が幾度とあったが
真面目にやってはいる。しかしどうしても努力をしているようでも絶対的な部分で
この人は汗かいてないな、と感じる人が何人かいた。
その部分に気づくことで判ってくるものもあるのだけど、気づかせるのがまず難しい。
感じたことがないものは判らないからだ。なのでこちらで指摘しても
理解は示すけど「ああ、そうなんだ」で終わってしまう。
自分としても半端な事を伝えたくないので、くじけずw懇々と教えてしまう訳だけども
大抵ほとんどが「そうですね」とか「なるほど」とかじゃなく
延々と持論を述べたり「まぁ、それでもそれが自分だから(一番カチンとくるなこれ。特に『まぁ』が)」
「でも自分はプロじゃないから・・・」とか。
たとえばイラストレーション。
これはあまり美術の成績は関係ない。デッサン力とかあるに越したことはないけれど
むしろコンセプトや発想の斬新さ、プレゼン能力を求められるので、絵しか描いていない人より
基本文章書きとかばりばりの理系の人が描いたりするとものすごく面白かったりする。
その人ならではの人生が投影されるのも即ち個性の一つ。
プロならではの技もあるけど、公務員や主婦でしか表現できないものも確かに存在するのだ。
それをどう表現するかの技術は習えるものではないから自分で試行錯誤して築いていくしかない。
もちろん様々な刺激を求めるのも忘れずに。
自分なりにやり方をあれこれ試して骨を折って、打ちのめされてもそこからは逃げられない。
最初の文のように何事もがっつり対峙してきたならば、「これだ!」と打ち込めるものに出会えば
急激に伸びて行けるものなのではないだろうか。
自分自身を顧みて、あんなこんなの軋みが最近になって大リーグ養成ギプスのように
効いてきてるなあと実感している。
自由気ままな精神も、拘束された経験がないと「空気の読めない身勝手」にしかならない。
いくつになっても青春、とは聞くけどこの精神の筋トレは若いうち限定だと思う。
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