2011年5月5日木曜日

人が己を見失う時

多々ある情報の中から、有益だと思うものだけ選んで指針とする。

けれど、有益と思う=自分の求めている100%の安心材料、という図式を

無意識のうちに組み立てている。


猜疑心かひねくれているのか(たぶん両方)数ある情報の中で、自分にとってものすごく都合のいいものを見つけた時

一瞬疑ってかかる癖がある。何かに依存する者はその凭れかかった壁の下敷きになる可能性だってある。

情報だってそうだ。鵜呑みに信じてしっぺ返しを食うのは同じ事。

あくまで自分の生活環境や出来る範囲、実行不可能な事を鑑みて取捨選択していき、

暮らしの歩幅を変わらすことなく生きていく。今はもう、もらい泣きしたり憤りに感化されたりという状況ではない。



何故人は、自らの足元を冷静に見据えることが出来なくなってしまうのだろう。

今大きい災害が起こっている場所は別として、当事者ではない遠く離れた地に住んでいる人たちが

割とそういう状態なのが不思議だ。「信用できない」とか「裏切られた」とかいう声を聞くたびに

「行政とかマスコミとか信用という類のものでもないのに」と思う。

こっちから「すいませーん」と窓口に行って諸々の手続きをして、手続き通りにハンコを押してもらう。

黙ってたって何かしてくれるわけではない。行政は「活用」(もしくは「利用」)するものだ。

情報も、自分にとって有用なものならジャンルを問わず目を通すし、納得いかなければ別のソースを見てみるし

あくまでこっちが自由に選別する立場だ。信ずるに値するとかそういう種別ではないのじゃないか。

遠方にありて、そうもアレルギー状態になるのは、何にせよ常日頃、様々な物事の在り方に深く向き合う手間を惜しんでいた

だけではないのだろうか。生きることに想定内なんてあり得ないのに。普通に暮らせる尊さに甘んじていただけではないのか。

そしてその事を真っ先に自らを省みたのだろうか?

「何かがおかしい世の中」であるけどその片棒を担いでいるのも私たちなのだ。

正しいことで人は殺せるし、正しくないことで命を生かせる。

生きる真理が単純な二元論で収まりはつく訳はない事を、

この混沌からいい加減学ぶべきは私たちではないのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿