2010年11月3日水曜日

いつからの時代が正しい日本語なのか

自分自身の思いを表現するなら、日常に息づいた今の言葉を使う。

逆に生の暮らしから遠ざかって、その音や調べ、叙情を楽しむという意味では昔の文部省唱歌など

しみじみと鑑賞したりするにはこの頃の時代の言葉回しが馴染む。

冬景色、という歌が凄く好きで鮮やかなほど情景が目に浮かんでくる。

一、
  さ霧(ぎり)消(き)ゆる湊江(みなとえ)の
  舟に白し、朝の霜(しも)。
  ただ水鳥の聲(こえ)はして、
  いまだ覺(さ)めず、岸の家。
二、
  烏(からす)鳴きて木に高く、
  人は畑に麥(むぎ)を踏む。
  げに小春日(こはるび)ののどけしや。
  かへり咲(ざき)の花も見ゆ。
三、
  嵐(あらし)吹きて雲は落ち、
  時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ。
  若(も)し燈(ともしび)のもれ來(こ)ずば、
  それと分かじ、野邊(のべ)の里。


現代に生きる我々には逆に現実味が遠い情景かもしれないけど、それでも故郷への望郷のような

懐かしさを感じさせてくれる。



よく日本語が乱れた昨今・・・とか耳にするけど、個人的に思うのはいつの時代を基準に「乱れた」「壊れた」と

なってきたのだろうという事。

新しい文化や情報の付属として派生していった部分があるなら、それは壊れたとかいう表現ではなく

言葉の変化のスピードがあらゆるものの多様性と共に累乗していっているから、その速さについていけなくなって来ている部分なのかもしれない。


こちらのブログを見つけて興味深く読んだ。http://memo.hirosiki.jp/article/37853977.html

そこから抜粋したのがこの一文。そうだよなあと思う。

そもそも、美しくなければ愛せないという感覚がどうかしていると思う。
美しかろうが美しくなかろうが、そのことばで育ったのならそれなりに活用して生きればいい。
ほんとはそれこそが「母語を愛する」ということにつながると思う。
ことばは、日々新しいものが生まれて日々古いもの(語弊があるな)が消えていくけれど、変化しながらダイナミックな営みが続けられることばは生き続け、人間の生を編んでゆく。
ことばはいきもの。生きているということは愛されているということだ。
別に美しいかどうかなんて関係ない。



祖父母に育てられたのもあるせいか、今の時代では使わない言い回しを私自身よくする。

ハンガーを「衣紋掛け」美容院を「髪結いさん」あとは「天花粉」か。

時々口に出ると「今の時代に・・・」とは言われるけど(しかも結構高齢の方に言われるのが癪だ)、これは古い言い回しが好きとかではなく

私にとっては自身の人生に添ってきた生(なま)の言葉だからである。

時代を超えたリアリティな温みをこの言葉から感じて、きっとこれからも使い続けるのだろうなあと思う。

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