自分自身の思いを表現するなら、日常に息づいた今の言葉を使う。
逆に生の暮らしから遠ざかって、その音や調べ、叙情を楽しむという意味では昔の文部省唱歌など
しみじみと鑑賞したりするにはこの頃の時代の言葉回しが馴染む。
冬景色、という歌が凄く好きで鮮やかなほど情景が目に浮かんでくる。
一、
さ霧(ぎり)消(き)ゆる湊江(みなとえ)の
舟に白し、朝の霜(しも)。
ただ水鳥の聲(こえ)はして、
いまだ覺(さ)めず、岸の家。
二、
烏(からす)鳴きて木に高く、
人は畑に麥(むぎ)を踏む。
げに小春日(こはるび)ののどけしや。
かへり咲(ざき)の花も見ゆ。
三、
嵐(あらし)吹きて雲は落ち、
時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ。
若(も)し燈(ともしび)のもれ來(こ)ずば、
それと分かじ、野邊(のべ)の里。
現代に生きる我々には逆に現実味が遠い情景かもしれないけど、それでも故郷への望郷のような
懐かしさを感じさせてくれる。
よく日本語が乱れた昨今・・・とか耳にするけど、個人的に思うのはいつの時代を基準に「乱れた」「壊れた」と
なってきたのだろうという事。
新しい文化や情報の付属として派生していった部分があるなら、それは壊れたとかいう表現ではなく
言葉の変化のスピードがあらゆるものの多様性と共に累乗していっているから、その速さについていけなくなって来ている部分なのかもしれない。
こちらのブログを見つけて興味深く読んだ。http://memo.hirosiki.jp/article/37853977.html
そこから抜粋したのがこの一文。そうだよなあと思う。
そもそも、美しくなければ愛せないという感覚がどうかしていると思う。
美しかろうが美しくなかろうが、そのことばで育ったのならそれなりに活用して生きればいい。
ほんとはそれこそが「母語を愛する」ということにつながると思う。
ことばは、日々新しいものが生まれて日々古いもの(語弊があるな)が消えていくけれど、変化しながらダイナミックな営みが続けられることばは生き続け、人間の生を編んでゆく。
ことばはいきもの。生きているということは愛されているということだ。
別に美しいかどうかなんて関係ない。
祖父母に育てられたのもあるせいか、今の時代では使わない言い回しを私自身よくする。
ハンガーを「衣紋掛け」美容院を「髪結いさん」あとは「天花粉」か。
時々口に出ると「今の時代に・・・」とは言われるけど(しかも結構高齢の方に言われるのが癪だ)、これは古い言い回しが好きとかではなく
私にとっては自身の人生に添ってきた生(なま)の言葉だからである。
時代を超えたリアリティな温みをこの言葉から感じて、きっとこれからも使い続けるのだろうなあと思う。
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