2011年1月16日日曜日

自ら拓かずとも豊かな道

今日は歌会だった。

常連のHさんが珍しく早めにいらしていたので(大雪という予報で早めに出たのだという。見事快晴で予想は外れた)

ぽつぽつと世間話。

御年80を越えつつ電子辞書を駆使するHさんの語る時代ゆえの性差の話など興味深く聞いた。

言われた通りにお稽古事を習い、薦められるまま結婚、女性は損だと思っているけどなぜか

自分の周囲には同じ考えの人はおらず「変わり者」と思われていたでしょうねえ・・・と笑っておられた。

私からすれば当たり前でもその時代に生きてきた人にしては革新的かもだけれども

「私なんかは、小さい時から絵を描いたりとかそういう表現することは好きだったけれど

Hさんの小さい時、これやるの好き!というのはありましたか?」と聞いてみた。

遠縁に出版社の創立者がおられた関係で本はたくさんあって、とにかく自由に読めたという。

なので本を読んでいれば大人しい子供だって言われていたと。

あちこち塗りつぶされた(検閲で)そういう関係の本でも読む事を咎められることもなかったそうだ。


空想に遊び、物思える自由がHさんの老いても柔らかな思考と柔軟性、洞察力を育んだのだと感じた。

その証拠にHさんの歌に対するコメントは鋭くまず真意を外されたことはない。

レールの上を行くだけの人生としても、その各停の時間や道行を楽しめる心持ちをどれだけ持てるかというのは

本人次第なのだなと思った。


欠けていたもの、育めなかったもの、仕舞い込んでいたもの。

それぞれ違う形で背負っている。

何かを表現する「きっかけ」にはなるけれども、きっと私自身も

そういう負い目のような事をわざわざ文字の形にして吐露=表現という段階から

もっと進まなきゃと思う。


この後また別件で記事書くかも。

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