2011年2月18日金曜日

詩は志

歌友の「詩」や「言葉の強さ」についてのつぶやきが心に触れたので、見解といえるほど大層なものでもない

ぼやっとした自分なりの思い(何に対しても大体こんなゆるいスタンス)をちょろっと綴ってみる。



詩、というものの意味を考えるようになったのは、何のこともなく私の名前の一字が「詩」なので

ふと思い立って漢和辞典(三省堂)を開いたのが始まりだった。

意味としては心に感じたことを韻律を含む言葉に表したもの・・・とある。漢字なのでもちろん

詩経、漢詩としてのイメージではある。

中国最古の詩集として名高い「詩経」(選者は孔子なんだそうです)の大序に書かれている文がこれ。



詩者,志之所之也。在心為志,發言為詩。
詩は志のゆく所なり。心に在るを詩と為し、言に発するを詩と為す。



この場合の志とは「心が動き向かう」という意味ではあるけれども

非常にシンプルにわたしの胸に落ちてきて自分の名前が好きになった一文だった。

文明開化と共に西洋からやってきた詩の概念ともともと日本にあった文語調や五七調との

葛藤の歴史もあってか、「詩」というものを考える時難解にならざるを得ないというか

そういう小難しい姿勢でないと受け入れられない部分があるのか。

個人的には「こうでならねばならない」「後世まで残るような言葉を」という括るほど

詩を書くことのそれぞれの自由な意義から遠ざかっていくように思える。




自分にとっての心を打つ言葉や文章は、ちょろっとネットやwikiで探せばいくらでも出てくる。

それに感動や感銘して糧に出来るかはその人の感受性であるけど、自分の内から何かを生み出す時に

本当にきっかけとなる感動はどこから探せるだろう?

メディアから与えられる多様な感動は、時にはそれで満足させられてしまう部分がある。

一般に博学や勉強ができるというのは知識量の積み重ねに過ぎない、といつだかの歌会でそんな話が出たが

ものを知っているからといってその人自身の「豊かさ」に繋がるかといえばまた違う。

一分一秒でも息をして、働いて、食べて、汗をかいて、生きてゆく時間から気づけることを

ひとつでも出し惜しみせず形にした方が、遥かに書き手としての血肉になる気がする。

とりあえず自分の志はこんな方向を向いている。

表現という裾野のさらに末端にいる自分でも、心がそちらに向いてる限りは

消費者ではなく供給者でありたいと思うのである。

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