2011年3月30日水曜日

自意識の置き場

自分で意識していない部分で(生まれ育った環境からでしか知識や常識を得ていないというのもあるけど)

よくも悪くも泥を被れないひと、というのは存在する。

満たされた懐から差し出すことが優しさだと思っている。

そしてその大半はいい人なんだけど、案外自分から下手に出たり折れたり妥協したりがないので

周囲が意をくみ取る形で世間話は出来ても、お互いが有益に豊かになるような話し合いが難しい。


でも、泥を被れないことに負い目を感じているひともまた存在する。

ささやかでも動こうとすれば動けるのに出来ない。

自分なりにもっと出来る事、自分なりのより良いやり方と拘るほどに動けなくなってしまう。


良心に従って動く、という事に自意識は必要だろうか。



はるか先で車同士がぶつかる瞬間、聞こえなくても「危ない!」と叫んでしまう。

転びそうな子供やお年寄りに、届かなくてもばっと手を差し出してしまう。

でも突き詰めれば大層な理由はないのだよね。ただ、反射的に声が出たり手が出たりのこと。

そして被災地外で普通に日常を送りつつ、ささやかだけどと義援金をちょこっと振り込むのも

これとなんら変わらないレベルだと思う。

それでもひとりの声よりは100人の声なら届くかもしれない。

��00人が一斉に駆け寄れば転ぶのを阻止できるかもしれない(ちょっと想像すると笑えるが)

このうねりがじわじわと大きい力になっていくこの頃、他人だけど同じ血の通う「ひと」なんだなあと

感じるようになってきた。


あなたがあなたであるのは大事だけど、意味をなさない状況下なら素直に放り投げておけばいい。

自意識を脱いだあなたの裸を他人は大して意識していないことがわかるよ。

しばらくしてまた着直した時、「あ、サイズ変わったかな」とか「なんか似合わなくなった」と

感じる事が「成長」というのかもしれない。

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