2011年3月26日土曜日

震災が起きしばらくしてからのツイッターのフォロワーさんのつぶやきで

募金は好きじゃなかった、という理由の

募金をすることで「いいことをした気持ちになってしまう自分の矮小さ」に気づきたくなかったのだと思う。

でも今回は、その「気づきたくない」という気持ちのほうがよほど矮小だと思ったから、募金した。

という部分に激しく共感した。自分もそういう風なスタンスだったので。

良し悪しではなくこういう考えの人、かなり多いのではないだろうか。

直接の被災者でなくとも生活観や人生観がひっくり返るほどの今回の震災。

そして人間的で表現者的な気づき、とも思った。

その人なりの理由で助けに動けないジレンマを抱えるのも、メディアや政府等批判するのも

これから来る苦難の月日に思いを馳せ忸怩たる思いに苦悩するのも

皆、同じ一つの事に心を向けている証拠。

人類の重い見返りを、因果応報で淡々と受け止めていくしかないんだなと

思えた瞬間、「受容」という意味の深さを知ることが出来たような気がする。



禍福は糾える縄の如し



その縄に縛られながら、そこからわたしは


何を見出せるだろう。


何に繋げられるだろう。


何を生み出せるだろう。

2 件のコメント:

  1. SECRET: 0
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    募金したら少しは自分の気も楽になるかしらなんて思って
    募金したけれど
    やはりあんまりそれで気が楽になるということもないとわかりました。
    でもそれで気が楽にならない自分に安心したところもあります。

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  2. SECRET: 0
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    今回の出来事から、分かった部分(自身においても物事の本質においても)というのが
    私自身結構あって、募金に対するスタンスもそうですけど、「動くべきに動くことは
    恥ずかしい事じゃないんだな」というのがいい感じに腑に落ちました。
    思うに、気が楽になるというのは自己満足だと思います。
    しないよりしたほうがいい自己満足でも、確かに循環されていくけれども
    何かそこに安心できないというのが薔子さんらしい感じがしますねぇ。
    薔子さんなりに震災と向き合って得た「何か」が巡り巡って時間をかけて
    歌として誰かに届く。それがその誰かにとって癒しや救いになるかはわからないけれども
    同じ時代、同じ瞬間を共有したという事実として手渡せるとすれば
    今現在のジレンマ等々は、無駄ではないと思っています。
    ささやかーな募金は私もしましたけど、自分なりに少しでも出来ることを
    こつこつゆるゆると探している最中です。

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