2011年10月16日日曜日

右脳人間なりの矜持

ツイッターでフォローしているマーラーの(なんか縁付いてる?)bot

時折琴線に響くことを呟いてくれている。


音楽家が秘めているものを言葉に表すことは出来ません。
普通の人と違っているのは確かですが、
それが何なのかは答えられないのです。
音楽家は流離人のように彷徨っています。
どの道を辿ってよいのか分からなくとも、常に光を追っているのです。
それが太陽のように輝く天体であれ、人を惑わす鬼火であれ



当人にとってはどうあれその光は真実なのである

が、しかし

幻想や理想や妄想の中だけの世界に過ぎない。



音楽家にしろ演劇や歌や詩歌や文芸にしろ、非生産的知的職種は

ある種平和で豊かな社会の中で成り立っている。


その社会が形のない不安に脅かされている時の

��はっきりと意識してなくても)足元が揺らぎつつあるという自覚が

何だか極端な行動に走らせてしまう気がする。


考えたこともないのにいきなり自然回帰や美しい地球や人類の平和を叫ぶよりは

揺らぐ足元を見つめたり

その揺らぎの正体を探すべく執拗に内へと探究したり

「わたしを本当の意味で脅かしているものはどこにあるのだろう」

「かたちある何かを動かす術を持たない俺には何が出来るのだろう」

そんな逡巡こそが、「形なきものを生み出し、形なき心を動かせる者」として

ある意味誠実な姿勢なのではないか。



時が経ち物理的に体裁は整ってもどこか空洞な、それは街であったり人の心であったりするだろうけれど

そこに吹き込める風であり、潤す水であり、点す灯である

農家はお米を作り大工は家を建てるけれど、自分たちが捧げ与えられるものはそういう類のものだ。

「そんな俺であり私であるしかない。」といい加減肚を決めたっていいのではないか。

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