何というのか、人それぞれの思いを認め合うというのは
突き詰めると「肯定」「否定」とかをずっと越えた先にある部分だと思う。
その思いを肯定する、ということではなく、対等とか平等に近いニュアンスではないだろうか。
うすらぼんやりと思っていたのだけど、認め合う=肯定と考えていると
ものすごく否定される事に過敏になりすぎる気がする。
それでは自分の思いすら平静に見つめられないし、肯定否定の視線は必ずしもその対象を
正面から見据えない。大抵上か下かだ。
十数年前に全国大会に出した歌を「あの歌は好きじゃない」と言われた時、漠然と「どこが好きじゃないんだろう」と
頭の隅で考えつつ時が経った今、なるほどなと判った。
多分今の私でもあの歌は好きじゃない。
大した事ない辛さでも大仰に書かねば耐えれなかった部分もあったけど、その大仰さが
五行歌っぽくても「クサすぎる」と感じたのだろうか。
言い切り型ゆえの、否定すらさせないほどの「そうだろ?」的な力。
読む側が思いを馳せる隙間すらないというのは、きっとその方にとっては歌ではないのかもしれない。
時を重ねて否定を超えて目線が対等になった瞬間だった。
ああ、歌ってすごい。
進むのを止めさえしなければ、あらゆるものが見えてくる。
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認め合う=肯定なんかじゃない、に一票。
自分が肯定できる範囲なんか、ちっちゃいちっちゃい。
自分の肯定できる枠を新たな価値観でぶち壊されるのがいいんだもん。
肯定してたことが否定になって、否定してたことが肯定になる。
それが成長でもある。
認めるってことは、今は肯定できなくても、「ありかな」「あってもいい」という感覚まで含む。
そうだろ?(笑)
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あまりにも肯定色が強すぎると
歌に対しての評なのに、その作者自身への批判に
取られがちになるんだよね。
ずっと続けているからこそそれに流されがちに
なる時もあるし、その中にいては気がつけないものなのだよね。