仕事へ行く前に本屋で雑誌を立ち読みしていた。
段組みと文字バランスの読みやすさと写真の美しさで、刊行されてるときは必ず目を通すくらいに好きな雑誌。
その中の一文に、ふとひっかかった。つまりは自分たちの作り出したものが生んだ災厄は
自分たちで後始末をしなくてはというニュアンスの文であるけれど(もうあちこちでゲンパツゲンパツと
口を開けばその言葉に正義の常套句を付けて熱く語られることに辟易している。
話題に出したくないというよりそれについて的確に建設的に語っている訳ではない人というのが多すぎるんだ。)。
至極正論で、元来どう対処すべきかを簡潔に語ってくれている。
ただ、何かが違う。思いの重石のようなものが。何でだろう?と思った。
で、こう考えてみた。
もしも自分がこの立場になって同じように当事者ではないけれど逡巡し考え、こういう考えに
至ったという事を話して文字起こしされたものを、誰かが読んだとする。
その誰かも多分似たような感覚を感じる気もする。
もちろんその事に関してどうこうということではないけれど、あくまで文字という形として
改めて読んだ場合、当事者ではないという絶対的厚みの違いと距離感がものすごく伝わってくるという事なのだ。
※でも引っかかったのはその文だけで取材された方は確固とした意志を持った魅力的な方でした。
それを差し引いても今回の記事はどれもおすすめなのでお金入ったら買います、とフォローw
そして自分を鑑みつつも省みつつ今、ブログを書いていたりする。
大いに主義主張を語れるこの場所であるけれど、むしろそういう考えに何故至ったかを
堂々巡りになりつつ頭ををもつれさせつつつ、そしてずかずかとうつくしき正論で
��これって時には凶器だよな)踏み込むのではなく
脱いだ靴をちゃんと揃えてお邪魔するくらいの姿勢で言葉を紡いでいくというのが
読み手に対して誠実であるよなあと思った。
五行歌脳で紋切り思考になりがちなのは意識していかないとなあ、
うーんうーん、気をつけねば―と夜は更けていくのであった。
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