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哲学にしろ文学論にしろ、透明感のある芯というのか禅などの日本文化にも影響された部分もあるからかもだけど
西洋的でありながら物事に対する姿勢というか「佇まい」という感覚が自分的には近いけど
東洋のどこか達観した部分を強く感じる。
もちろん彼自身の出自やレジスタンス活動などから得てきたもの確立してきたものもあるから
児童文学者とか哲学者とかでひとくくりに語り切れない複雑さとニュアンスがあるのも事実。
それでも何か彼の文章と接する時、静寂な時間、仏閣神社を行くような、
カップから香り立つひとすじの湯気を辿るまなざしのような、穏やかさを取り戻させてくれる。
象徴とは、解くことのできる謎(Raetsel)ではなくて、
どこまでも解ききれない秘密(Geheimniss)ですから。
秘密に満ちたものを求めることが、生涯にわたる父の課題でした。
おそらく息子の私もこれを父から受け継いだと思います。 『三つの鏡』
蝋人形の陳列室では、想像上のものやフィクションと、
現実との境界がまさに消えているわけで、そのために見物人がショックを受ける。
そういうのは、どう転んでも芸術とは程遠いしろものだ。
そういうのは、嘘でしかない。
嘘というのは自分をフィクションだと知らせないフィクションのことだからね。
人間には神話が必要なのです。
神話は人間の生の矛盾を、ひとつの物語やひとつの絵にまとめてくれますから。
人はそれを指針にできる。 『ものがたりの余白』
バスチアンはあの一夜に、あの謎めいた本を読むことにより、
彼の神話を体験するのですから。
それはバスチアンが体験する、彼の神話なのです。
そして、バスチアンは、あの夜、かれの神話を体験するからこそ、
翌日には、外の世界にも向かう事が出来る力を、
彼自身の中に見つけることになるのです。
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神話が必要なわけをなんと端的に表してくれたことか!
『はてしのない物語』は小さいころから本の虫だったわたしそのものの話しだった。
本の中の世界にどっぷりとはまって見聞きしてる錯覚。
神話は可能性とか夢とか希望への架け橋になってくれる。
夢だけ食べては生きられないけど、たまに食べる夢のお菓子は美味。
身体にとりこんだ栄養はいまでも、ずっと自分を支えてくれてる気がします。
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その言葉で思い出したけど、昔読んだ絵本や童話、児童文学を読み返すのって
そのころよく食べたお菓子を味わう感覚だよね。
昔と変わらぬおいしさだったり、大人になって食べるとまた違った味だったり。
きゅうくつな大人になってしまった自分への再発見でもあり
見えない部分を支えてくれる「やわらかで尊いもの」を自分の中に
まだ見いだせる安心感を確認できるとも言えるかと。
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返信削除PASS: 72256f8971aefb19f327aa7c08503149
エンデ大好きです。
物語もいいし
それ以外の文章もいいですよね。
本や文章によってはもう何度かわからないくらい読み返したものも。
エンデが今の世の中を見たらどういう発言をするだろう?と
考えることが時々あります。
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いいですよねー。
私も最初は「はてしない物語」から入りました。
「鏡のなかの鏡」が好きなんですがあまりの深遠さというか
自分の中まで映し出されたような怖さににくらくらきて
立ち読みで済ませてしまったというw
今だったら読めるかな~・・・。
たしかに存命だったらどういう発言をされるか興味あります。
また今までの思索とは違ったものへと変化するような気も。
それに関連して、エンデだけではなく大戦を生き延びてきた思索者や芸術家が
その歴史のフィルターを通して得てきた様々なものを思う時、
今ある出来事、またちがった歴史が流れていくような予感の渦の中に
私たちがいる意味を長いスタンスで考えていくことが
何か重要なことに思えたりもします。
人に言うのは憚れますがこれに関しては自分に対し「がんばれ」と弱気な決意wをしております。