2011年6月8日水曜日

排泄の作法

食事中の方は回れ右、もしくは下のなごみ動画など見てなごんでください。



詩やあらゆる表現=排泄という論は私も頷けるところが多々ある。
赤裸々というかフィクションの歌が少ないというのもあるけれど、一時期本当にリアルで行き詰っていて
もう本当に想いのあれやこれやを吐き出さねば心身共にどうにかなってしまうという感じではあった。
なので歌自体の思い切りの良さを驚かれるのも妙に面はゆい気持ちでもある。
そういう意味ではその頃は自作の歌が表現物という意識は薄かった気がする(今もそんなにない)。
言わば自分の排泄したものをありのまま提示して「これは見事なものですね」とよそ様から
何故だか褒められる?居心地の悪さ。
ただ、マーキングのように自身の在処をそこに示すがごとく歌を書くことを自分の居場所としていた感もある。
固いものを無理やりふんばって出す。
出すだけでいいものをそれをわしづかんで周りにぶちまけたい衝動を
抑えきれなかったことも多々あった。
そういう歌は今見るに堪えないものばかりだ。けれどその頃はそうするしかなかった。
あれから状況は変わって多少なりとも平穏になり、汚物を掴むような叫びもなくなったけれど
固いものもさほど固くなくなり一定の配分で出せるようにはなった。
けれど、表出・表現の根底の意味という点では、おりこうさん過ぎるかなと思ったりする。
そしてそう思えるあたり、まだまだぶちまけたい衝動はあるのかなとも思う。
排泄、ただそこに致すという自己完結。余韻と香りを醸し出し、己の内から出すことで
心身を健やかに日常の根底を豊かにせしめるもの。
やっぱりおんなじだ。呼吸も排泄も歌も生きることも。

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